以前、大和は分からないことばかり、と書きましたが、疑問の一つに、飛行機格納庫に通じる凹部の機能があります。

 戦後早い時期に出た大和の図面には、よくエレベーターと書いてあったものです。実際にはエレベーターは設置されなかった(と思う)ので、その後、ここにエレベーターと書いた図面は無くなったのですが、なぜ初めにはエレベーターと書いてあったのか、本当にエレベーターは無かったのだろうか、と思っていました。

 大分古い話で恐縮ですが、大和の設計主任であった牧野茂さんに、「格納庫への通路の床に、エレベーターと書いてある図と、書いてない図がありますが、どうなんでしょうか」と聞いたことがあります。

 牧野さんは、即座に「エレベーターは付けたよ」と事も無げに言うので、「でも、図面では、そんな装置があるようには思えないのですが」と言うと、首を捻って「うん、しかし、エレベーターを付けるように計画したがなあ」と言ってから、「どうだったかなあ、止めたんだったかなあ」と、独り言のように言いました。

 どうも戦後の大和の図に、最初にエレベーターと書き込んだのは、牧野さんだったようでした。その後、いくつかの写真が発掘されて、エレベーターが無かったことは、ほぼ確実になったのですが、その時は、却って疑問がふくらんでしまいました。そこで、「でも、エレベーターの機械室のような部屋はないでしょ」と聞くと、「そんな空母みたいなものは要らないよ。戦艦扶桑の水偵のエレベーターのように簡単なもんだよ」と言われて、ああ、そうか。と思いました。

 牧野さんが言ったのは、扶桑の大改装後、一時水偵のカタパルトを3番主砲塔の上に装備した時期があるのですが、ここに水偵を上げるのは、デリックだけでは難しいようで、砲塔の左舷側の甲板に、簡単なエレベーターが装備されていたのです。このエレベーターは、油圧で伸びるシリンダーを使ったもので、垂直に4本のパイプを設置した程度のもので、僅かなスペースで済み、空母のような、大がかりな装置は要らないのです。

 爆弾や魚雷を積まない偵察機なら、重量的にも問題はなかったのでしょう。この状態の扶桑の図面を見ることが出来たのは、随分後になってからでしたが、話だけは福井静夫さんから聞いていたのです。私の詰めの甘いところで、更に、なぜエレベーターを設置しようと思ったのかを聞けばよいのに、そのまま話が変わってしまいました。 

 そこで、また私の想像ですが、なぜエレベーターにしようとしたか、を考えて見ました。

 大和型の飛行機格納庫に続く凹部は、あまり大きな広さはありません、この寸法の根拠は、当然ながら搭載予想機の寸法から割り出したものでしょうが、いずれにせよ風波のある洋上で、この井戸の底のような場所に、クレーンで飛行機を降ろすのは簡単なことでは無かったはずです、実際洋上から吊り上げるだけでも、偵察機の翼端を舷側にぶつけるような事故は少なくなかったのです。

 そのために、ここはブレの無いエレベーターで降ろそうとしたのではないかと想像しました。一旦降ろせば、その後はレール上の移動台車で艦内に運べるわけです。しかし、何らかの理由で、このエレベーター設置は見送られたのだと思います。では、なぜ見送られたのか、それは、大和計画当初の搭載予定の水偵は、複葉機でキャンバス張りの脆弱な機体であったので、必ず格納庫内に格納しないと破損の恐れが多かったのですが、大和建造中に、飛行機は殆ど金属製になり、常時格納の必要はなく、通常露天繋止とし、砲戦などの際は、艦上の機体は全機発進させるような運用に変わったからだと思います。

 実際、大和起工後の昭和12年に開発が命ぜられた、12試の二座と三座の水偵は、全金属製で、露天繋止に耐える設計であり、多分に大和搭載を意識したものだと思っています。これは巡洋艦でも同じで、妙高型なども、当初は簡単な格納庫を持っていましたが、改装後の巡洋艦では、全て格納庫は廃止されています。

飛行機格納庫扉

ミュージアムの10分の1大和の飛行機格納庫扉です。外からは殆ど見えない箇所ですが、扉のヒンジやレールなども丁寧に作ってあります。大和建造中に私が撮影したスナップなのですが、一瞬本物の写真のような気持ちになります。

 以前、大和の零式観測機のパイロットであった岩佐二郎さんに話を聞いたときに、「訓練では格納庫に飛行機を入れたが、普通は甲板繋止のままだった」。と聞きました。岩佐さんは、「大和の格納庫は、広くてね、一度どれだけ入るか実験すると言うことで一杯に詰め込んだら36機入った、みんなで36計逃げるが勝ちか、と冗談言ったことがある」。と聞きました。

 私は、余りに数が多いので、水偵3機、観測機6機・・などと言うところを言い間違ったのではないかと思いましたが、これもその場で聞き直さなかったので、確認出来ません。因みに岩佐さんは、「20年に入ったら、もう大和に飛行科は要らないと言うことで、飛行科は特攻出撃前に大和から降ろされた。私ね、大和の出撃の日、零観で大和の上空を旋回しながら見送った、何とも言えない気持ちだった」と話していました。

 有名な、昭和20年正月の第2艦隊司令部職員他の、大和乗員の記念撮影は、写真室を管理する飛行科が撮影したものだったので、岩佐さんは、綺麗なオリジナルプリントを張り込んだアルバムを持っていました。

 その中の一枚を指さして、「これは私、レイテから帰る途中で、大和飛行機整備甲板の上で撮影した。左舷の後ろだったかなあ」と言いました。残念ながら写真の背景は海ばかりでしたが、それでも、大和の歴史の貴重な一齣と思いました。