日本海軍で、大和と言う名前は、ご存じのように2代目です。では初代はどんな軍艦だったかというと、鉄骨木皮という、極めて珍しい構造の国産艦で、なかなかスマートな機帆船、つまり、基本的には帆船ですが、時々使うために蒸気エンジンも積んでいる、いわば昔のハイブリッド艦なのです。

 初代大和は、明治16年度計画,の巡洋艦で,小野浜造船所で建造されました。明治16年に起工されたのですが、途中小野浜造船所のオーナーであったキルビーが、経営不振から拳銃自殺するなどのトラブルがあり、竣工は19年となっています。巡洋艦に類別されて、日清戦争、日露戦争に参加後は特務艦(測量艦)として活躍しました。初代艦長が東郷平八郎であったことも注目されます。昭和10年に特務艦籍から除籍されて司法省に移管されて、浦賀港に繋留して少年刑務所(漁労実習船だったかと記憶します)として使われていました。

 私などは、計画中の新戦艦に大和の名前を使うために除籍したのではないかと思いますが、時期的には、やや微妙です。太平洋戦争中に廃船となり、解体のために横浜に回航されましたが、終戦の混乱の中で台風にあい、鶴見川付近で沈没してしまい、25年にその場で解体されました。それにしても、60年近く使われたのですから、立派なものです。

 この大和の艦名は、明治天皇が決めたことが、はっきりしていることでも貴重な艦名です。当初艦名案をいくつか天皇に示したところ、「もっと良い名前はないのか、大和、武蔵とか・・」というお言葉があり、そのまま決まったと言われています。(都営地下鉄の新線が出来たとき、都で決めた仮称は、東京環状線、だったようですが、石原都知事が、「もっと良い名前はないのか、大江戸線とか・・」と言ったので、そのまま決まった話に良く似ていますね)

 戦後福井静夫氏は、この初代大和の遺品を残すために、苦労して引き揚げた艦材を入手し、当時勤務していた海上保安庁の事務所に保管していたそうです。所が、冬に出張があり、帰ってみると、その材木がないのです。同僚に聞くと、「ああ、そこの廃材はストーブで燃やした」と言われて、ガッカリしたことがあるそうです。普通の人から見れば、半ば腐った材木に歴史的価値など考えられなかったのだと思います。私の家のガレージにも、昔三笠で貰った甲板のチーク材が置いてありますが、まさに廃材で、気を付けないとゴミにされてしまいそうです。

 実は、私はこの初代大和が好きで、以前、柳原良平氏が「船の本」(昭和43年 至誠堂)を出したときに、読者カードが付いていて、この読者カードを送ってくれた人には、好きな船の絵を描いて送ります。という、今では考えられないようなサービスがあったのです。私は直ぐに「初代大和をお願いします」と書いて出したところ、暫くして葉書に直接カラーサインペンで綺麗に書かれた初代大和の絵が送られてきました。

 その後、この大和の模型を作ろうと思ったのですが、果たせないままでしたが、昨年模型メーカーのフォーサイトの長田さん(社長)が、初代大和を造りたい、と言いだし、少しだけアドバイスをしました。まさかこんな船のプラモデルを作る会社が有ろうとは思わなかったので、感激しました。ただ、フォーサイトの模型は、更に地味な測量船時代で、心配性の私などは、こんな売れそうもない模型を出して、会社が潰れなければ良いが・・と本気で思ったものです。

 殆ど気が付いている人は居ないようですが、実は初代大和は映画に出演しているのです。先ほど除籍後に浦賀に繋留されていたと書きましたが、昭和14年から浦賀で陽炎型駆逐艦「浜風」が建造され、昭和16年6月に竣工しています。当時この浜風の工事を背景にした映画、「八十八年目の太陽」が浦賀で撮影され、開戦直前の昭和16年11月に公開されました。特撮スタッフに円谷英二が名を出している他、主役級で徳川夢声が出ています。内容は、アメリカかぶれのジャズマンが、国難に目覚めて造船工になる・・というような、時局便乗の内容で、全然面白くはないのですが、本物の駆逐艦の建造現場が僅かに見えるところが貴重な映画です。そして、竣工した浜風は(映画の中ではハヤカゼとされ、舷側の艦名も一文字だけ書き換えられていました)関係者の万歳に送られて浦賀を出港して行くのですが、浦賀を離れて行く浜風が、何と初代大和のすぐ脇を行くのです。私は、この大和の方にビックリした記憶があります。

 さて、大和3代目は、どんな船になるのでしょうか。

初代大和

【初代大和】特徴のある垂直艦首が、白塗りの船体とあわせて、優美な印象さえ受けます。