お陰様で大和ミュージアムも何とか無事に運営しています。約3年で400万の来館者に来て頂いたことは、感謝に堪えません。今回ホームページも一新したことから、何か新しいページを、と言う意見が出て、今回から私の日頃の思いを書いてみることにしました。

 基本的に館長の仕事は広報のウエートが大きく、資料館、博物館の現場の仕事が好きでこの仕事に就いた私としては、現場の仕事をすることは、ほとんど無いのがチョット残念ですが、これはこれで仕方がないことです。しかし、現場の仕事から一歩下がって館を見直す事が出来るのは、良いことと思っています。今回は、その一歩下がって考え直す話です。

 博物館、特に当館は大和をキーにしているので、大和については悩みがあります。それは、大和はサッパリ分からない船だからなのです。ご存じのように大和は極秘の内に建造されたことと、終戦時の徹底した資料の焼却で、殆ど資料がないのです。従って、残されたものはどれも断片なのです。そのために館のホールにある10分の1大和を建造するときには、言葉に尽くせない苦労をしました。今回はその一つ、錨について書いてみます。

大和の主錨 大和の艦首には、その巨大な船体に相応しい巨大な錨が付いています。しかし、この大和の錨の正式な資料は無いのです。錨の形自体は海軍の規格の図面が残されているので、問題はないのですが、その大きさに関しては不明なのです。いくつかの資料の中に、12トンから15トンまでの数値があり、決定が出来ないのです。以前大和の設計主任であった牧野茂先生に、聞いたところ、「錨は私たちの担当ではないので、記憶にないなあ」と言われました。これは当然で、錨は船の大きさに従って、概ね基準があるので、設計の時にわざわざ考えることはないのです。しかし、私が、12トンと言う数字がありなすが、と言うと「もっと大きいはずだ」「12トンという数字が有ってもそれは疑問だね、主砲の大きさを40センチ砲と書いていたのだから、大和の大きさを推定出来る錨の大きさの数値は正直には書かなかったかも知れない」と聞いたのが、牧野先生からの唯一の証言でした。次いで、連合艦隊航海参謀として大和、武蔵に乗り組んでいた、土肥一夫先生に同じ事を聞いたとき、「錨の大きさは航海科に関係があるので、大和の航海関係の要目はノートに控えておいたが、覚えていない」ということでした。ただ、航海術専門家の土肥先生も「12トンでは少し小さいと思う」ということでした。

 だいたい錨の大きさは、牧野先生の言うように繋ぐ船の大きさに関係するので、図面から推定出来ないかと思い、大和のホースパイプの図から大きさを出してみると、全長約5メートルほどだと丁度良いようで、これを規格の図面で鋳造すると大凡15トン近くになるので、15トン説が近いのかなと推定して、10分の1大和建造の時にはこの寸法を採用したのです。ヤヌス・シコルスキー、日本海軍艦艇模型保存会の河井代表も15トン説でした。原勝洋著「戦艦大和のすべて」では、12トン説を採っています。12,5トンという数字を見たこともあります。恐らく当時の鋳造記録でも出てくれば、12トンから15トンの間の数字が出ることは確実と思います。

 ここで気になるのは、大和のホースパイプは、先端が甲板から飛び出していて、従来の戦艦とは全く様子が異なることです。ここで、はて、と考え、もしもこれが普通の戦艦のように甲板の高さで収まっていたらどうなのだろうと思い、寸法を見ると、錨の全長が約1,5メートルほど短くなっていると丁度良い寸法なのです。では、と思い、呉の鋳造大手の寿工業さんに寸法から重量を推定して貰ったところ、約12トン弱。との回答を得たのです。

 ここからは私の推定で、現在の所資料はないのですが、大和の初期設計では通常通り甲板の表面で丁度良い錨の大きさで設計され、それが12トン程度だったのではないでしょうか。それが、途中で更に大きな錨が必要になり、このために甲板上に飛び出す結果になったのではないでしょうか。その結果恐らく12トンから15トンの間の数値の錨になったのではないかと想像しました。

 なぜ錨に拘るかというと、今年、先の寿さんから、大和の錨の100%復元品を造って寄贈してあげましょう。と言うお話を頂いたので、さて、と思ったわけです。そして、先のような検討から、一応現在の諸説の中で最大級の15トンという事で製作して貰いました。製作に当たっては、海軍の規格図をコンピュータに取り込んで3次元図を作り直すのですが、図面は三面図しかないので、デリケートな凹部の形状などは不明であったので、現存する旧海軍の錨を訪ね歩いて形状の再現をして貰いました。こうして完成したのが、呉市内の公園に設置された錨なのです。前に立つと、その巨大さには驚かされます。

 良くこんな巨大なものを作ったなあー、が今回の感想です。