今月は、昨年の戦艦武蔵の発見に続き、戦艦比叡が発見されました。調査に当たっている、ポールアレン財団のメンバーの努力には敬意と感謝の思いです。
今回は、比叡の発見から発表までに、一週間の時間が有ったので、発表前に画像を検討することが出来ましたが、まず驚きました。
第一に、船体の前方3分の1が失われていたことと、その船体前方、艦橋よりも前の部分が発見されなかったことです。比叡は、今までは自沈処置をして、乗員を避難させたのち、再度比叡の現状を確認のために戻った所、発見できなかったので、その場で自沈したものと思われていたのですが、実際は自沈中に、恐らく二番主砲塔火薬庫が何らかの理由で自爆して、船体を二分した状態で沈没したことが分かった訳です。
しかし、船体が二分しても、大きな部分は付近に発見されるのが普通で、すぐに見つからないほど離れて沈没することは考えにくいことです。恐らく、切断部分が艦橋前方で、形状的に艦首の鋭利な船体部分であり、2つの砲塔が抜け落ちたとすれば、約1000メートルの海底に届くまでに、海中を滑空するように流れていったのだと思います。
船体は完全に転覆していることと、調査グループの情報では、艦橋部分が激しく破損しているとのことから、残念ながら、比叡の艦橋を見ることはできませんでした。ただ、撮影された画像の中に、比叡艦橋後部両舷にあった、94式高射装置の基部と思われる箇所を見ることが出来ました。現在は一部の映像しか公開されていませんが、追って、武蔵の場合と同様に、大和ミュージアムの館内で展示できることと思っています。
今回の比叡の発見で、私個人としては別の思いがありました。私がかつて勤務していた、財団法人史料調査会の会長であった関野英夫氏は、当時第11戦隊の通信参謀として比叡に乗り組んでおり、比叡が沈没に至った第3次ソロモン海戦に参加していたのです。戦隊司令部の参謀は、戦闘配置が無いので、同じく第11戦隊の砲術参謀だった千早正隆氏と一緒に、比叡の艦橋トップに上り、夜戦を文字どおり観戦したのです。
戦いは暗闇の中で行われ、水平線で光る米艦の主砲発砲の光が良く見えたそうです。特に印象に深かったのは、米駆逐艦の突撃で、艦橋のブルワークから身を乗り出して下を見るような近距離に米駆逐艦が迫り、あまりに近過ぎて主砲は撃てず、互いに機銃を撃ち合いながらすれ違うという、近代海戦では有り得ない接戦を演じたのです。関野氏は、「アメリカの機銃弾の光は青白い光で、日本の機銃弾の光は赤っぽい。闇夜の中で無数の光が交錯する様子は、戦いと言うことを一瞬忘れて、奇麗だと思った。」と言っていました。
しかし、比叡艦橋に敵弾が命中し、炎上を始めたので、館内を通過して降りることが出来なくなり、やむを得ず、千早氏と、炎の届かない、信号ヤードの信号索を伝って、20メートル近い高さから、甲板に脱出することにしたのです。
関野氏は、手袋をして何とか無事に降りることが出来ました。降りる途中、艦橋内を見ると、立っている人が見えず、幹部は全滅したと思ったそうです。千早氏は、手袋を持っていなかったので、素手で細い信号索を掴んで降りたために、途中で摩擦のために手のひらの肉がえぐれてしまい、かなり高い場所から落下し気絶してしまったのです。
このために、関野氏からは、海戦の話しを聞く機会がありましたが、千早氏に聞いても、「実はね、あの時落ちた時にショックで暫く記憶が飛んで、あの前後のことはよく覚えていないんだよ。」ということでした。千早氏は、肉がえぐれて、ゆるく手を握ったようなままで開くことが出来ない手を見せてくれました。
また、この発見報道がきっかけで、比叡砲塔長だった安田喜一郎様、比叡を護衛した白露乗り組みだった山本太郎様のご遺族から、貴重なお話を頂きました。安田氏は、艦長の命令で、最後に自沈のために砲塔火薬庫のキングストン弁を開いたご当人なのです。
一つの歴史的発見をきっかけに、次々と新しい発見があることを思うと、歴史の探求は、80年100年たっても、絶え間なく継続する意味が有ると思いました。
今回の発見をしたチームは、その後南太平洋海戦で沈没した米空母ホーネットを発見したとのニュースがありました。彼らの探索は、まだまだ続くので、次の発見を期待したいと思います。