今月は悲しいニュースがありました。

 フィリピンやマリアナ諸島で、積極的に戦没艦船の調査を実施し、大きな成果を上げてきた、ポールアレン氏が亡くなりました。65歳と言う、あまりにも早い年齢にもショックを受けました。深くご冥福をお祈り申し上げます。

 同氏の調査チームからは、貴重な情報を頂き、更なる発見を期待していた私としては、今後の調査事業がどうなるのか気になりましたが、現在のところ、調査は予定通り継続するとの連絡がありました。

 一方、7月の豪雨災害で大きな被害を受けた呉市、そして大和ミュージアムは、全国からの温かいご支援を受けながら、順調に復旧しつつあり、本日(10月20日)は、企画展の入場者10万人目のお客様を迎えるイベントを開けました。10万人目になったのは、神戸からお見えになった女性3人のグループでした。こういったお客様のお蔭で、大和ミュージアムも、来館者がもとに戻りつつあり、館内は、今までと変わらない賑わいを取り戻しています。わざわざ遠くからご来館していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

 さて、今回の長門の企画展は、大和建造に至る、日本海軍の戦艦建造の背景を辿る意味もあり、興味深い内容になっています。どのような技術製品も、いきなり現れるものではないのです。長い試行錯誤の上に、徐々に進歩するのが技術だと思います。更に、技術の発達は、使用者の意見が重要な要素となります。そのために、海軍では、常に艦隊での使用実績を調査し、現場での要望を改装などで対応し、同時に新鋭艦の計画に反映させることをこころがけていました。このために、技術士官を第一線の艦隊の船に乗り組ませることも良く行われていたのです。

 大和ミュージアムの基本資料を収集した福井静夫氏も、何度か軍艦で勤務したことがあるそうです。私が以前、そういったときの話を聞いたときには、各部署の改良の要望を聞くことはありますが、当然技術士官には決まった配置は無く、実際はお客さんですから、カメラをぶら下げて、軍艦の写真を写して楽しんでいたそうです。当人は、ほとんど趣味と仕事が同じなので、喜んで写真を写しているのですが、技術士官が写真を写していると、調査研究のために撮影しているように見えるのでしょうか、艦長などからは、技術大尉、勉強ご苦労様。などと言われて恐縮したそうです。無論私の反応は、「あーうらやましい・・・」の一言でした。

 戦艦の艦長も、やはり、軍艦をより使いやすくするために、時折改良の要望を出したりしたそうです。私が直接会って話を聞いた長門の艦長は、大西新蔵氏(昭和15年10月から16年8月)と、渋谷清見氏(昭和19年12月から昭和20年4月)のお二人ですが、大西氏は、長門には全く文句は無かったようでした。竣工してから20年近くたっているのですから、不具合はほぼ解消されていたのだと思いました。しかし、渋谷氏は、長門がレイテ沖海戦から帰投してからの艦長であったので、「もう燃料も無く、作戦に出でることも無いのだと思い、残念だった。測距儀を陸揚げして、山の上から接近する米軍機を測定して、係留されたままの長門の主砲で間接射撃する計画を立てたよ。」と話していました。渋谷氏は、海軍航海学校の教頭も勤めた航海畑の人で、戦後も長い間、海軍航海術史の編纂を計画していました。私の上司であった土肥一夫氏は、昭和17年から19年にかけて、山本五十六、古賀峯一司令長官のときの連合艦隊航海参謀でしたから、この海軍航海術史の編纂についてはいろいろ手伝っていましたが、結局実現しませんでした。残念なことでした。

この長門の写真は、昭和19年10月、捷一号作戦(レイテ沖海戦)を控えて、ボルネオ北部のブルネイ湾で待機している姿です。 遠く、大和と武蔵が見えます。