50分の1ミグ21

50分の1ミグ21。今見れば、他人に見せるようなものでは有りませんが、高校1年生(だったと記憶)が、殆ど切り出し小刀一本で作った模型です。ゴムタイヤは劣化して無くなっているので、そのうち修理します。

 物置の整理をしていたら、高校生のころに作った、ソ連のジェット戦闘機ミグ21のソリッドモデルが出てきて、思わず時間を忘れてしまいました。当時は今と違って、飛行機のモデルは50分の1が主流でしたから、私も、全部50分の1で作っていました。当時の航空雑誌は、毎号必ず飛行機の図面が折り込みで付いていたものです。

 小学生低学年のころは、世の中にプラモデルはなく、模型店に並んでいるのは全部ソリッドモデルのキットです。最初はキットを買っていたのですが、どう考えても、いい加減な図面と、単に平面形や側面形を切ってあるだけの、ただの朴の木の角材と板が入っているだけなので、すぐに自分でその辺の建築現場でもらった端材で作るようになりました。

後になってからは、風防は、透明な塩化ビニールの板を探して自分でヒートプレスで作りましたが、タイヤだけは模型店で手ごろなサイズのものを買いました。そのうちプラモデルが出始めたのですが、初めのころは、玩具じみて、あれは子供のおもちゃだ・・とあまり買わなかったものです。今思えば、自分だって子供だったのに。

テレビでは、プラモメーカーのマルサンがスポンサーで、「陸と海と空」という番組があり、数人のモデラーが自作の模型を持ってきては紹介する番組で、その週のトップには、マルサンのプラモが賞品として渡されました。毎週見ていました。今思い出しても、素晴らしい模型が出品されていたものです。

ソリッドモデルは、高校生のころまで作り、その後はプラモデルが進歩したので、もっぱらプラモデルを作りました。新橋のステーションボビーが大きな店で、後に錦糸町に移った後も通いました。その頃新橋の地下街の骨董店の中に、大きな木製の4枚プロペラが飾ってありました(たぶん海軍の一五式飛行艇のプロペラだったと思っています)。今はどうなったのか、気になります。

作ったプラモデルは壊れやすく、長持ちしないので、そのうち全部壊れて捨ててしまいました。

もっとも、キットは、面白そうなものを見ると、いつか作ろう・・・と、気になったキットは迷わず買い続けていたので、ずいぶんな量になっていました。思えば、休日に、車で都内のプラモ屋さん巡りをしているうちに、後席がプラモで埋まってしまったこともありました。通販で外国からも買っていました。

何度か引越しをするときは、プラモ屋の引越か?古本屋の引越か?と笑われるほどでした。軍艦は、700分の1はあまり買わないので、世界最大のプラキット、日模の200分の1大和(新造時を作ろうと思い、副砲パーツを2基分余分に買っておきました)をはじめ大物ばかり。450分の1の重巡洋艦利根のキットなど、知っている人は少ないのではないでしょうか。

飛行機も大型が好きだったので、レベルやハセガワの32分の1の飛行機などが多く、作っても置くところが無いという悪循環と戦っていたわけです。

10年ほど前から、とうとうプラモと古本が、人間の生活空間を甚だしく侵略してきたので、冷静になって考え、古本を処分するわけにはいかないので、実家に置いてあるプラモの処分を決意したのです。模型製作余生が20年として、手元に100箱くらいのお気に入りキットを残して、あとは処分することにしました。

そして、最近千葉の中古プラモも扱うプラモ屋さんを呼んで引き取ってもらったのですが、自分では1000箱は無いと思っていましたが、後から後から出てきて、結局1500箱くらい処分しました。我ながら良く集めたものと感心しました。1トン半くらいのトラックの荷台に、ベニヤ板で壁を作って山盛りでした。

100箱くらいと思って残した分を数えたら、300箱くらい残っていたのには、再度あきれました。プラモ屋さんからは、1箱平均で百数十円のお金を頂きました、まあこれが相場なのでしょう。

トラックに積まれて行く

夜中トラックに積まれて行く、長年連れ添ったプラモの山。ほっとしたような、寂しいような、複雑な気持ちで送り出しました。

 『夜中トラックに積まれて行く、長年連れ添ったプラモの山。ほっとしたような、寂しいような、複雑な気持ちで送り出しました。』

 さて、残ったプラモの、どれが無事に完成するか・・350分の1の英国巡洋戦艦フッドは完成させたいし、72分の1のB36も作りたい。最近出た500分の1や、350分の1の戦艦大和も、なかなか良いキットですし。イギリスで買った、怪しげな古典機も作りたい・・。無論自作の戦艦日向(開戦時)も建造を進めたいし。と、本職の大和ミュージアムの新しい展示構想を真面目に考えながら、頭の隅で妄想にふけっています。