7月16日(土)から始まった今回の企画展「海軍を描いた作家 阿川弘之・吉田満・吉村昭 ~「大和」・「長門」・「陸奥」のものがたり~」は、大和ミュージアムにとっては珍しいテーマの企画展です。大和ミュージアムでは主に造船技術と海軍の歴史について紹介していますが、技術の歴史と言うものは、決して技術者だけのものではなく、広く日本の社会とともに歩んできたものであることを思うとき、文芸作家であり文学者が日本の軍艦や海軍をどのような目で見ていたか、またどのような気持ちで海軍と向き合っていたかを知ることは大切なことと思います。
特に今回選ばせていただいた三名の作家は、それぞれの立場から深く海軍の歴史に関わった人であることから、今は失われた海軍の歴史を知るための大切な資料ともなっています。
大和ミュージアムの名誉館長をお願いしていた阿川弘之先生に関しては、館長ノートで何回か思い出を書いていますので、今回は、吉村昭さんの思い出を少し書いてみます。
吉村さん(毎度のことながら、いつも吉村さん、と呼ばせていただいていたので、失礼とは思いながら、さん、と呼ばせていただきます)とは、最初に何時お目にかかったのか、記憶が無いのですが、吉村さんが海軍軍医総監高木兼寛の伝記執筆の準備を集めているときに資料の相談を受けたのが最初だと思います。これは平成3(1991)年に「白い航跡」として上下二巻の作品になっていますから、調査をしていたのは、その数年前と言うことになります。当時吉村さんは高木兼寛のことと、幕末の軍艦、特に幕府軍艦の乗組員の名簿などを探していました。
多分半藤一利さんに紹介されて私の所(当時目黒の(財)史料調査会の司書でした)に来たのが最初でした。関係資料を探しながら高木兼寛の話題で少し話をした記憶があります。
高木兼寛は宮崎県出身の人で、私の祖母の祖父に当たる野村盛賢の友人で、私の家にも高木兼寛と野村盛賢が一緒に写っている写真があり、後日お見せしたところ、吉村さんは、「いやー、これは当時の雰囲気がよく分かりますね。」と喜んでいました。ちなみに野村盛賢は戊辰戦争に18歳で参戦、西南戦争には西郷軍の中隊長で従軍した歴戦の侍でした。
同時に、当時史料調査会の会長だった関野英夫会長は、子供の頃住んでいた六本木の近く狸穴のあたりに高木兼寛の屋敷があり、朝海軍省に出かけるところを時折見たそうです。関野さんが吉村さんに、「当時の紳士はほぼ例外なく帽子をかぶったのですが、高木さんは何故か無帽主義で、毛の無い頭が目立っていましたよ。」などと実際に見た高木兼寛の姿を話すのを、興味深そうに聞いていたものです。
その後、私が昭和館へ移ってからも時折調べ物の相談があり、私が、「こんな資料がありますからコピーして送りますよ。」と言うと、「それは申し訳ないですから、私が行きますよ。」と昭和館に来ては自分で必要な資料のコピーを取っていました。一流の作家でご自分で資料のコピーを取るような人は他に知りません。この時は九段下近くの一茶庵という蕎麦屋に行って二人で蕎麦を食べました。吉村さんは、「私は蕎麦大好きですが、通ぶったようなのは嫌ですね」と言っていましたが、同時に、「でもね、蕎麦はもそもそ食べちゃあだめですよ」とも言っていたものです。懐かしい一茶庵は、残念ながら今はありません。
文藝春秋の平成13年10月号に、「東京の戦争」というタイトルで吉村さんと半藤一利さんの対談が掲載されました。昭和17年4月18日のドーリットル中佐の東京空襲をお二人ともその時の米軍爆撃機を実際に見ていると言うことから、空襲当日の話をしたそうです。その対談をしたという日の夜、吉村さんから電話があり、「戸高さん、私、半藤さんとドーリットル空襲の時の飛行機を見た話をしたんですが、私ね、あのとき家の物干し台で凧揚げていたんですよ。そしたら左の方からものすごい低空を双発の飛行機が飛んでくる。私、慌てて凧に絡んじゃいけないと思って凧をたぐり寄せたら、目の前を飛行機が取り過ぎた。アメリカの爆撃機ですよ。マフラーをしたパイロットの顔も見えた。その後ニュースとか読んで、私の見たのはドーリットルの飛行機で、パイロットはドーリットルだと思っていたんで、半藤さんにその話をしたら、いきなり、「そんなこと分かるわけ無いじゃないか」って散々馬鹿にするんですよ。私は悔しくてね。本当に、何とか私が見た飛行機に乗っていたのが誰か分からないでしょうか。」と。半藤さんは親しい人には遠慮会釈の無いべらんめえな話し方をするので、よほど半藤さんは実も蓋もないような言葉で否定したのでしょう。吉村さんは悔しいと言うよりも、面白い話題だから出来れば知りたい、と言う雰囲気で、「悔しいじゃないですか」と言っているのです。私は良い歳の大人が本気で言い合っている姿を想像して、内心チョット笑ってしまいました。
そこで、私の軍艦研究の大先輩がドーリットルの東京空襲の当時の報告記録を纏めてアメリカで出した本を持っていたのを思い出し借りたところ、東京上空に侵入した各機の飛行ルートが全部記録されている地図があり、それを見ると、吉村さんの家がある日暮里の上を飛んだのは一機のみ、それがドーリットルの機体だったのです。ただし、吉村さんは左から右に飛んだ機体を見たので、見たパイロットは副操縦士で、ドーリットルは向こう側に座っていたのです。
これを纏めてコピーと一緒に送ってあげたところ、大喜びの電話を貰いました。
それにしても、吉村さんと半藤さんは面白い組み合わせで仲が良かったと思います。私が面白いと思うのは、半藤さんというのは、言葉使いから物腰まで正に江戸っ子の末裔なのです。これに対して、吉村さんは完全に東京っ子なのです。さほど歳は変わらないので、どこがどうとは言いにくいのですが、はっきりと雰囲気の違いがありました。吉村さんは極めて律儀な人で、原稿が締め切りに遅れるようなことは無く、伝説では新聞連載の小説など、連載が始まったときには原稿はすでに完成していると言われていました。
吉村さんが亡くなった後、ゆかりの日暮里で盛大な偲ぶ会がありましたが、奥様が坦々と話された吉村さんの最期の様子はあまりに壮絶で会場がしんみりしました。私が半藤さんに、「これで締め切りを守る作家は絶えてしまいましたね」と言うと、「そうだなあ」と寂しそうに言いました。
今回の企画展で紹介されている資料から、丁寧で誠実で律儀だった吉村さんを偲ぶことが出来れば、と思っています。
次回は、企画展の三人目、吉田満氏の話を少し書きます。
*平成6年10月25日、「戦艦武蔵建造記録」(1994年アテネ書房)の出版記念を兼ねて、戦艦武藏の艦内神社に祭られた、武蔵の国一之宮にあたる氷川神社で関係者が集まって献本をしました。監修の牧野茂先生は体調の都合で欠席されましたが、三菱関係者、編纂にあたった内藤初穂氏などが出席し盛会でした。
写真は、献本式のあと寛いだ折のスナップです。