今回の企画展には海軍を描いた作家として、阿川弘之、吉田満、吉村昭の三名を取り上げましたが、この三名の中、前回は吉村昭氏を取り上げました。今回は、「戦艦大和ノ最期」を描いた吉田満氏について、一度だけですが会った際の印象を書いてみます。

言うまでも無く、戦艦大和は極秘のうちに計画され、建造され、沈没したために、海軍関係者を別にすれば一般国民はその存在を終戦までは全く知ることはなかったのです。言わば戦艦大和は日本国民に取っては、最初から神話的存在だったと言って良いのです。

この神話の大和を、現実の姿として初めて国民の前に示したのが、吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」だったのです。この「戦艦大和ノ最期」と、戦艦大和基本計画チームの、もっとも若いスタッフだった松本喜太郎氏が、昭和25年に中央公論社の雑誌「自然」に戦艦大和の技術的記事を8回にわたり連載したことで、日本人にとっての戦艦大和のイメージ、つまり日本海軍は、技術的に世界最大の戦艦を建造、保有していたこと、同時にその能力を発揮することなく悲劇的な最後を遂げたという意味において、この二つの作品が、日本人の心に深い印象を植え付けた作品だったのです。

私が、この「戦艦大和ノ最期」を読んだのは中学生の頃で、いきなり漢字カタカナ交じりの馴染みの無い文体に突き当たりましたが、数ページ読み進むうちに、その文体の持つリズムに引き込まれ、一気に読み終えた記憶があります。ちょうど同じ頃に、古典の授業で平家物語の、壇ノ浦の扇の的、有名な那須の与一の箇所です。この箇所が教科書にあり、半ページほどの短い部分ですが、極めてリズミカルな文章に思わず何度も読み返していたために、この吉田満氏の文章に同じようなリズムを感じたのです。

以後、私の頭の中での戦艦大和のイメージは、「戦艦大和ノ最期」で出来あがっていたのです。無論小学生の時から日本の軍艦が大好きだった私は、世界最大の巨大戦艦としての大和は知っていましたが、それまでは、写真で見る姿のスマートさが興味の中心であり、戦争の最後の段階で沈没したことは、当然知っていましたが、どのように沈んだのかは詳しくは知りませんでした。そのスマートで世界一強力であったはずの大和が、何の戦果を挙げることなく、ほとんどの乗員と共に爆沈した現実を知って、改めて、軍艦には人間が乗っていることを再認識しました。それ以来、船や飛行機が大好きであることには変わりないものの、乗員が書き残した戦争体験記、戦記類を読むようになったのです。

と言うのが、私が吉田満氏を知った思い出なのですが、その後いろいろな縁があり、多くの海軍関係の方に出会い、お話を聞く機会がありました。中でも海兵54期の土肥一夫さんは、私の子供じみた質問にいつも丁寧に説明をして頂きました。縁あって、1978年に吉田満氏と面会する機会があったのです。2年後の1980年に、私は土肥さんが勤める財団法人史料調査会の司書として、土肥さんの直属部下となったのですから、世の中の縁は不思議なものです。

土肥さんは、太平洋戦争が始まったときは第四艦隊井上成美長官の参謀、ミッドウエー海戦後は、連合艦隊山本五十六長官の参謀、山本長官戦死後は古賀峯一長官の参謀を歴任し、その後軍令部参謀として終戦を迎えた人で、文字通り海軍に精通していました。私の上司と言うよりは先生でした。

さて、1978年10月でしたが、その土肥さんから、「こんど水交会で海軍の集まりがあるから、記録用にスナップ写真を写してくれないか」、と頼まれました。

10月18日、原宿の水交会で行われたのは、「第2回、オールネービー総会・国会議員超党派の集い」という長いタイトルの会で、海軍出身の国会議員を中心に多くの海軍OBが出席し、海上自衛隊東京音楽隊が来て演奏を行うなど、盛大な会でした。この時土肥さんからは、源田実氏に紹介され、挨拶をしました。源田氏はニコニコしながら「きみー、人生楽しまにゃいかんよーっ」と言われたことだけ覚えています。鳩山威一郎氏がいましたから、恐らく主計短現で同期の中曽根康弘氏もいたと思いますが、人が多く見つけられませんでした。源田氏には、その後零戦搭乗員会で何度かご挨拶しました。

その後は時々お目にかかる佐官クラスの方に挨拶していると、土肥さんが、「チョットきなさい」、と会場の隅の、静かなグループの方で呼ぶので行くと、土肥さんが、「彼は戸高君といって海軍の勉強をしているのですよ」といい、私に、「こちら吉田満さん」、と紹介してくれました。私はびっくりして、自己紹介をしました。吉田氏は、非常にしっかりした体格に見え、静かな挨拶を頂きました。そのとき右目が義眼であることに気がつきましたが、当時の私は戦傷かと思いました。戦後の事故と知ったのは、大分後のことでした。私が少しだけ戦時中の話を聞いてから、「もし可能ならば、後日改めてお話を聞かせて頂くことは出来ますでしょうか」と聞くと、ゆっくりと体を少し傾けながら、「私はあまりお役に立っていませんから、お話しするようなことはあまり在りませんから」、と言われました。私としては、いずれお話を聞きたいと思いましたが、その後機会が無く、お話は聞けませんでした。吉田満氏は1979年にお亡くなりになりました、56歳という若さでした。

私の吉田満氏との接点はこれだけなのですが、子供のような私に対してもとても丁寧な対応をして頂いたことに感激しました。また、賑やかなパーティーの中にあっても、静寂と言って良いようなたたずまいだった吉田氏の姿は忘れられません。その後、暫くして半藤一利さんと話をしているときに吉田氏の話になったとき、半藤さんは「吉田さんが歌う同期の桜は、何とも言えない、一緒に歌うことなんかとても出来ないような迫力があった」と聞きました。戦死した友人たちへの深い思いがあったのでしょう。

同じく、阿川弘之さんにも、吉田満さんはどんな人でしたか、と聞いたとき、「戦艦大和ノ最期」が雑誌創元の創刊号に掲載される予定だったゲラを、一気に読みふけって、筆舌に尽くしがたい衝撃を受けた。と聞きました。

暫くして、沖縄特攻の時の、第二艦隊伊藤整一司令長官の副官だった石田恒夫氏に、大阪のご自宅にお邪魔して半日海軍時代の話を聞く機会がありました。石田氏は、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦では、戦艦大和の主計長として、そして沖縄特攻の時は伊藤整一第二艦隊司令長官の副官として、長く戦艦大和で戦った人でした。大和主計長から伊藤長官の副官としての転勤辞令をもらったときの話の時に、「海軍ではね、停泊中の隣の船に転勤なんて事がある、そんな時には、ブイツーブイって言うのですよ。でも私の転勤は、大和の主計長室から副官室への転勤だから、ドアツードアだったんだ」と笑いながら言って居ました。石田氏の経験は、興味深く貴重なものでした。私が、「吉田満さんの記憶はありますか」、と聞くと、「よく覚えているよ、彼は若々しく元気な青年だったけれど、とにかく沖縄特攻が初陣だよ、私のような戦争慣れした人間とは違うからね、最初に高射砲を撃ち始めた時には、その音でビクッとしているような感じだったね」と、懐かしそうに話しました。

石田氏は、転覆直前の大和艦内で、伊藤長官が自室に入り、内側からカチリと鍵を掛ける音を聞いてから、ほとんど真横になった大和艦橋の壁を伝って艦橋トップから脱出した様子を話してくれました。

その後大和ミュージアムが開館し、吉田氏の資料についてお話を聞くために東京都文京区の護国寺近くのご自宅に奥様を訪ねて、いろいろな話を聞きました。この時吉田氏が最後まで床の間に飾っていた戦艦大和の銀製模型を頂き、大和ミュージアムで収蔵、現在開催中(~2023年5月31日まで)の企画展で公開しています。

1/500戦艦「大和」模型

あまり重要な話ではないのですが、この時奥様から、「うちの吉田の吉の文字は下の短い士ではなくて、下の長い土なのよ」と聞いたのが、なんとなく記憶に残っています。

先のパーティーの時来ていた、当時海上自衛隊東京音楽隊の二等海曹だった谷村政次郎さんには、その後長くお付き合い頂いています。海上自衛隊呉音楽隊や、海上自衛隊東京音楽隊の隊長を経て停年を迎えましたが、海軍軍楽や海軍の生活の知識に関しては第一人者で、何か分からないことがあると、いつもご指導を頂いています。

 

吉田満 氏(写真上中央)