戦艦「武蔵」館長ノート第48回で紹介しました、当館所蔵の戦艦武蔵が一式陸攻の雷撃訓練に対応した対空戦闘訓練中の写真について、その後の情報をお伝えします。

今回、艦艇模型のクラブ、NAVY YARD の機関紙「海軍工廠」63号で、会員の水谷清高さんが投稿された、武蔵の新写真について、の中で、私が最も疑問に感じ、かつ悩んでいた問題、つまり、武蔵の写真に舷窓が見えない、ことについて、これはカメラの解像度の限界の問題で見えないのだという、丁寧な解説がありました。

この武蔵の写真の発見以来、大げさに言うとずっと安眠を妨害されていた問題が、ようやく納得できて、これからはゆっくり眠れます。

確かに、写真自体がややピンボケではありますが、それにしても、舷窓や、換気の開口部も全く、影も形も見えないということに悩んでいました。

私の上司で、山本五十六長官の参謀として、大和と武蔵の両方で勤務していた土肥一夫さんは、二番主砲塔付近の右舷上甲板の部屋を使っていたそうですが、以前、日本海軍艦艇模型保存会の河井登喜夫さんが制作した、大和の50分の1模型の完成お披露目の会の際、私は土肥一夫さんと福井静夫さんのお二人を私の車でお連れして見に行きましたが、土肥一夫さんは、舷梯付近から舷窓の数を数えながら、ここが私の部屋だよ。といったものです。その土肥一夫さんは、私が、大和と武蔵とは、艦内で違う個所はありましたか?との質問に、細部までまったくおなじだったよ、まあ、武蔵の方が、木工部分などは少し良かったかな。と話されたのを覚えています。三菱は豪華客船などを建造していたので、調度品などの仕上がりは素晴らしかったのだと思います。

この時は舷窓の話はありませんでしたが、全く同じというからには、窓はあったのでしょう。また、何よりも、一昨年発見された武蔵の海底写真では、はっきりと舷窓が写っているのです。

写真の発見当初は、竣工時には一度舷窓を塞ぎ、その後再度付けたりすることなど有るのだろうか・・いやいや、数個はあったけれど、光の加減で見えなかったのだろうか・・など、悩んでいたわけですが、とにかく見えないというのが結論だったのです。

写真の調査も難しいものです。水谷さんのご指摘には感謝の一言です。

同時に、撮影時期については、22号電探は見えないものの、周辺の形状から昭和18年8月のトラック入港の際ではないかとの見解も示されています。これも十分に高い可能性がありますが、この時期ならば後部マストのトップに古賀峯一長官の将旗が無ければおかしいのですが、写真には将旗は見えません。マストトップのシミの下に将旗が隠れている可能性は残りますが、これまた悩ましいところです。次いで写真の来歴を考えると、写真を所蔵していた方が、18年5月の呉帰港時に病気で退艦して以来、療養していたとのことですので、大和退艦後に、内地でこのような写真を入手する機会は考えにくいのではないかと思ったのと、18年1月のトラック入港直前には、一式陸攻での雷撃訓練をした記録がありますが、現在のところ8月の入港の際の雷撃訓練の記録が見つかっていないので、さらに航空隊の行動からの調査も行おうと思います。記録がないと言うのは、記録が発見されていないだけで、訓練がなかった証拠にはならないからです。

このような写真の調査は、なかなか面倒ですが、こういった調査を通して、だんだん事実に近づけてゆくことが大切なことなのだと思います。