初めに、このたびの豪雨災害に際しまして、多くの皆様から激励の言葉を頂きましたことを、感謝しています。幸いミュージアム自体には直接的な被害は少なく、現在は通常開館に戻っています。
さて、現在大和ミュージアムで開催中の企画展「戦艦長門と日本海軍」に関連して、私の思い出を少し書いてみます。
昭和60年(1985)のことですから随分昔の話ですが、12月に入って、そろそろ師走の雰囲気が出始めたころ、読売新聞社から相談がありました、何と、ビキニに行ってもらえませんか?しかも出発までには10日ほどしかありません。さすがにえ~!と思いました。話を聞くと、読売新聞社の終戦40年企画で、ビキニ環礁に沈む長門の現状を調査するという企画が立てられたのです。ビキニはマーシャル諸島の環礁で、マーシャル政府はありますが、アメリカの保護領のような状態であり、ビキニ環礁自体は立ち入り禁止地区でした。読売新聞社は、アメリカとマーシャル政府の調査許可を取って準備したのですが、いざ出かける段になって、原爆実験で60隻近い軍艦が沈んでいるビキニ環礁の中で、これが戦艦長門で間違いありません。と自信を持って言える記者が居ないと言うのです。そこで、戸高さん一緒に行って、長門の確認を願いしますよ。他は何もしなくてよいですから。と相談されたわけです。たいていのことは1秒で結論を出す私も、さすがに年末の忙しい時期にビキニ・・・と10秒ほど悩んで、行きましょう。と言っていました。何しろ、戦後生まれの私にとって、本物の戦艦長門を実際に見るチャンスなど何度も来るはずはありません。早速、勤務先の史料調査会で上司の福井静夫先生と、顧問格の牧野茂先生に電話をして、ちょっとビキニに長門を見に行きます、と報告すると、両先生から、それは素晴らしい、しっかり観察してきてください。といわれました。のんきな私は、まあ、写真を写しておけば良いだろうと、簡単に考え、準備については、南国には違いないと、荷物は、カメラのほかはショートパンツとTシャツとゴム草履、それとスケッチブックと絵の具だけを持って、他のメンバーと一緒に、12月13日に成田を飛び立ちました。
そして、まずグアムに降りて一泊、翌日トラック島に降り、かつて連合艦隊が勢ぞろいしていた艦隊泊地をながめ、次いでポナペ島へ、・・・いったいいつ着くのか、各駅停車のような飛行を続けながらクエゼリンに向かいます。クエゼリンは日本軍が玉砕した島ですが、ここは当事アメリカ軍の大陸間弾道弾の発射実験の際の弾着地点だったので、要塞のような軍の観測基地があり、夜間だったので飛行機から降りることが許可されませんでした。翌日ようやくマジュロに到着しましたが、何と何も無い空港で、入管の職員も飛行機が着いてから自転車に乗って飛行場に来るような有様でした。ここで読売新聞がチャーターした調査船「新日丸」を待ちながら、数日ゆっくりしました。
マジュロは、環礁のなかでは大きな島ですが、細いところは、島の幅が数十メートル有るか無いかです。一応マーシャル政府の首都なので。読売の団長とマーシャルの大統領に表敬訪問しました。出てきたアロハシャツの気さくなおじさんが大統領です。通訳つきの世間話の中で、私が長門を引き上げる許可が出ることはありますか?と気楽な質問をしたら、鉄の代金をもらえれば良いですよ、とこれまた気楽な答えでした。今はダイビングスポットの目玉らしいので、駄目だと思いますが。
マジュロのような珊瑚礁の島は標高数メートルに過ぎないので、大きな波が来ると島ごと波をかぶります。大正時代の末の台風で、集落ごと波にさらわれるという大きな災害があり、このとき大正天皇が復興に力を入れたという石碑が残っていました。こんな南の果ての島ですが、当事は日本の委任統治領だったのです。砂浜でのんびりしていると、老人が寄ってきて、日本人だろ、私は国民学校に行ったから、唱歌を歌えるよ、といって、我は海の子、を歌ったのには、さすがに驚きました。
町の中には小さな博物館があり、入ると錆びたゼロ戦のプロペラが飾ってありました。ここで会った日本人旅行者に聞くと、環礁の水路には一式陸攻が沈んでいるとのことでした。
12月18日、ようやく到着した「新日丸」でビキニに向かいます。船上には調査潜水艇の「はくよう」が詰まれています。「はくよう」は、300メートルくらいの潜水能力があるので、水深50メートルほどの海底に沈んでいる長門の調査には十分です。でも、ちょっと見たところ、あちこち錆が浮いて、かなりくたびれた様子なので、少し心配になりました。艇のクルーが整備しているところに行ってみると、艇の底に大きなバラストが着いています。これは緊急浮上のためのバラストで、万一のときに艇内からこれを切り離すと、一気に浮上するわけです。私が艇長に、これ、ちゃんと落ちるんでしょうね?と言うと、にやにやしながら、さーね、ちゃんと作動するかねー使ったことないからねー。と心配そうな顔の私をからかうような口ぶりでした。(写真1)
船が環礁を出たとたん、私はベッドに直行、船酔いです。私は小さな船で揺られたら、1時間で体の全機能が停止するのです(大きな船なら割合大丈夫ですが)。これから2日間、私が船内で口にしたのはコップ一杯の水と、りんご一切れ。二日目には、遠くで、船長―、あの人(私のことです)死にそうですよ。と聞こえました。本当です。
12月20日朝、遠くで、着いたぞー、と声が聞こえたので、よろよろと甲板に出ると、エメラルド色の海の上に緑の椰子の林、その間を真っ白な砂浜が一直線につながっています。ビキニ環礁の中に入っていたのです。13日に成田を出発してから8日目です、やっと着いた・・と思いました。
早速ビキニに上陸することになりましたが、最初のグループは、胸に放射線の被爆量を記録するフィルムバッジを着けてゆきました。実際には何も反応は無く、次からは自由に上陸しました。
上陸すると、ハワイ大学の小さな研究施設があり、数名の調査員が居ました、年に数回データの採集に来るようです。早速新日丸から缶ビールを2ダースほどお土産に開けると、彼らは大喜びで、施設を使うことを許可してくれました。
さて、翌21日、早速調査開始です。私が真っ先に「はくよう」に乗り込みます。0739「はくよう」はクレーンで吊り上げられ、海に、丸窓が海面下に入った瞬間は、正直ちょっと不安でした、0758、下の方に船の舳先が見えました、瞬間的に長門と分かりました。特徴的な艦首御紋章の有ったあたりで、長門は確認できましたが、ここで、長門です、と言って、ハイそうですか、と言われて、浮上されてはつまらないので、全体を見ないと確認は出来ません、と言って、長門の船体に沿って海底に向かいます。このとき艦首左舷に大きな四角い穴が開けられていることに気がつきましたが、そのときは、なぜ穴を開けたのか分かりませんでした。
転覆している長門は、艦橋基部から折れていますが、爆発などによって破壊されてはいないので、各部分は綺麗に原型を保っています。
巨大な艦橋の横を過ぎて艦尾に向かうと、すぐ右側に主砲塔が見えました。転倒した船体の後部甲板が天井のようになり、その天井にピッタリと固定された砲塔が見え、そこから長大な砲身が伸びています。私は艇長に、もっと近寄ってください、というと、「はくよう」はゆっくりと砲身に近づきます。もっと、と言う私に、これ以上船体の下に入り込むのは危険なのでここまでです、と言われました。砲口は目の前です。時間は0830、マジックハンドに掴んだ50センチの棒を当てて、口径が約40センチと判断し、一応ここで、長門で間違いないです。と言いました。(写真2)
その後艦尾を回り、巨大な舵とスクリュープロペラに驚きながら艦尾を観察すると、大きく座屈したような皺と、外板の凹みと、小さな破口が目に付きました。破口の付近には数本のワイヤーロープが船体を巻いています。(写真3)
後で考えたのですが、米軍はなかなか沈没しなかった長門を調査しようとしたらしく、艦尾の破口の周りのワイヤーロープは、防水マットを取り付けた跡だったようです。そして、最初に見た左舷艦首部の大きな穴は、右舷後方の浸水で傾斜が増加する長門を、少しでも水平にしておくために、左舷前方の外板を切り取って、わざと浸水させて、バランスを取ろうとしたのだと理解しました。恐らく、浅瀬に座礁させて調査できれば良いと思ったのでしょう。(写真4)
ここまで見て、「はくよう」は船体に添って深度を上げはじめ、0900に無事に海面に浮上しました。
1時間20分の海底調査は終わり、私の仕事は全部終わったわけです。
さて、船で散々苦しんでいた私は、そのあとビキニに再び上陸し、一人だけ船には帰らず、ハワイ大学の施設のデッキチェアーを借りて、ビキニで数日を過ごしました。食事は毎日調査のメンバーが船から持ってきてくれます。それと、お土産のビールのおかげで、シャワー使い放題、冷凍庫のアイスクリーム食べ放題と言う、夢のような生活でした。シャワーとトイレは雨水をタンクにためて濾過したもの、飲料水は海水を淡水化したものです。
最初の夜は、デッキチェアーを外に出して、空を見上げました。この年は76年ごとに地球に接近するハレー彗星が近づきつつあり、12月下旬はかなり大きかったはずで、翌年の2月初めには再接近の予定でしたから、何か見えるのでは無いかと期待したのですが、何しろ空気の綺麗な絶海の珊瑚礁の島では、星が見えすぎて、高校生のとき地学部の部長として、星座もかなり知っていた私もお手上げで、ハレー彗星も南十字星さえ確認できないままで終わりました。
翌日、ハワイ大学の施設の車、1940年製のぼろぼろで床が抜けて地面が見えるようなダッジのオフロード車を借りて、ビキニを一周してみました。
細長い弓形の島なので、道は真ん中に一本だけ。道に沿って無人の家が並んでいます。もう痛んではいますが、アメリカ風の小奇麗な家です。米軍は、原爆実験の時に住民を全員他の島に移したのですが、その後ビキニの表土を4~50センチ入れ替え、住民の住宅を新築してから。元の住民を帰島させたのですが、やはり障害があったので、結局再び全住民を他の島に移住させ、以後立ち入り禁止としていたのです。私はハワイ大学の人から、魚などは食べても全然問題ないが、椰子などの木の実は食べてはいけない。と注意されただけでした。
車で走っては、止まって付近を歩き回ると言うことをしていると、環礁の内側に向けて石碑のようなものが目に付きました。はて、と車を降りてみると、椰子の木陰に立派な石碑があり、文字が見えます、
近づくと、椰子の木の下に石碑があり、日本語が見えます。荒い砂岩に上手とはいえない文字で「千歳航空殉職二勇士之碑」と書かれています。背面の文字は崩れかかって、読むのにかなり苦労しましたが、一時間ほど悩んで、何とか読みました。そこには、「故海軍二等航空兵曹川竹銀蔵 故海軍三等航空兵曹大久保利則 本島沖合二於イテ三月二十一日飛行訓練中殉職此地二荼毘二附ス 昭和十五年三月二十三日 軍艦千歳」とありました。千歳は水上機母艦で、当事南方防衛を担当していた第四艦隊に所属し、昭和十五年の一月から四月にかけて、南洋で行動していましたが、こんなマーシャル諸島の果てまで来ていたのか、と驚きました。文字は明らかに専門の石工のものではなく、千歳の工作科の兵が彫ったものでしょう。(写真5)
この碑が向いているのは、ビキニ環礁の内側で、ちょうど長門が沈んでいるあたりです。つまり、この石碑は、多くの原爆実験を見、そして長門の最後を見たのだと思い、ちょっとしんみりした気持ちになりました。同時に、ビキニの住民も米軍も、この日本軍の石碑を撤去することなく保存したことに、小さな善意を感じました。この石碑は、今も原爆実験の目撃者としてビキニの海を見ているのだと思います。
さて、翌年1月、松も取れたころ、牧野茂先生に長門の状態を報告しました。牧野先生は、ほとんど原形をとどめていたことに満足そうな様子でした。特に応急処置の様子に興味を持たれ、艦尾の防水作業の跡と、艦首の開口部について、よく気がつきましたね、長門に応急員が居たら、恐らく沈まなかったでしょうね、と話されました。艦尾の大きな座屈については、私が、転覆して艦尾から沈んでいた際、最初に艦尾が海底に衝突した際のものと思います、と言うと、そうでしょうね、と頷いていました。
私のビキニと長門調査の体験はこれだけですが、本当は行きがけのポナペ島で骨董品の双発輸送機DC3を見たり、日本に帰り着くまでにも、クエゼリン環礁に艦尾を海面上に出して転覆しているドイツの巡洋艦プリンツオイゲンを見たり、いろいろありましたが、これはまたの機会に。