その後私は財団法人史料調査会の理事になつていましたが、平成5年に当時の厚生省の依頼で、昭和期の国民生活に関わる資料館を作るということで、平成6年にこの事業を受託していた日本遺族会に移籍し、博物館設立に従事しました。これは5年かかって、平成11年に九段下に「昭和館」として開館し、私は図書情報部長(当初学芸部長兼務)として勤務していましたが、この間も途切れずに、呉の博物館の調査の相談がありました。
その後、ようやく呉の博物館の建設が具体的になったころ、急に呉市から、戸高さん、「昭和館」が一段落したら、うちを手伝ってくれませんか、と思いもかけなかった相談を受けることになり、考えた結果、呉の博物館設立を手伝う事となったのです。
平成16年春、呉に着任したときの気持ちは、本当に、運命とは、こういうものか・・。と思ったものです。当時は呉市職員としては決まった仕事は無く、当然館長でもないので、市からは、まあ暫く様子を見ていてください。と言われただけで、現実には10分の1の大和建造の監修者、というような立場でした。
翌年、平成17年の開館が近づいたころ、市から、議会に、集客予想を提出するのだが、どのくらいの集客が見込めるだろうか、と相談されました。私は、年間10万人来れば成功ですから、基本的に10万人は目標です、開館の年は話題性があるから倍の20万人は見込めます。と言ったのですが、議会では、初年度40万人、通年20万人と、倍の数字が報告されました。私は大変なことになったなあ、と困った記憶があります。
平成17年4月、大和ミュージアム開館と同時に、私は初代館長に就任しましたが、予想をはるかに超えた来館者に、私自身驚きの毎日でした。これも、呉市の市民ばかりでなく、周辺の多くの方々の、熱心な支援のおかげと思いました。
このような施設は、市ばかりが熱心でもだめなのです。周囲の多くの方々の協力なしでは成り立たないものなのです。呉市ばかりでなく、周囲の多くの企業、団体、個人から受けた、温かい支援こそ、大和ミュージアムを盛り立ててくれた原動力だったのです。特にボランティアの方々の熱烈と言ってよいほどの活動が、大和ミュージアムを支えている大きな力の一つと思っています。
幸い累計800万人という多くの来館者を迎えることが出来た大和ミュージアムですが、今後とも、博物館としての内容の充実に力を入れて、多くの方々のご支援を頂きながら、日本中からお見えになる来館者に、更に満足していただけるような館にしてゆきたいと思っています。