今回大和ミュージアムでは、佐久間艇長の企画展があるのですが、実は私も小型潜水調査船に乗った事があるのを思い出しました。どこで乗ったかというと、ビキニ環礁なのです。今回は、その時の思い出を少し書きます。

 大和ミュージアムのシンボルは当然大和ですが、呉では大和の前に建造した長門も竣工当時は世界最大級の戦艦だったのです。大和は今までに2回の海底調査がなされていますが、長門はというと、沈んでいる場所がマーシャル諸島のはずれ、ビキニ環礁の中なので、残念ながら調査は充分には出来ていません。ご存知のように長門は米軍が行った原爆実験で沈んだのです。周囲に係留されていた数十隻の米海軍艦艇は、ほぼ轟沈状況だったのですが、アメリカ海軍にとっては皮肉なことに日本の長門と、ドイツのプリンツ・オイゲンが頑張りとおしたので、両艦は調査を行うことになったのですが、プリンツ・オイゲンは近くのクエゼリンまで曳航したところで転覆沈没してしまいました。長門は徐々に浸水したために応急処置が施されましたが、実験から数日後に沈没してしまいました。

 ちなみにプリンツ・オイゲンは浅瀬で転覆したので艦尾が海面から突き出ていて、後にチャーター機で見に行きましたが、ドイツらしい3軸艦の中央のスクリュー・プロペラが無くなっていました。後で、これはドイツに運ばれて展示されている事が分かりました。

長門

終戦後横須賀で、ビキニに向かう準備中の長門。

 私は1985年に読売新聞社が企画したビキニと長門の調査に同行を求められて、12月13日に成田を出発しました。私が同行を依頼されたのは、「ビキニには多数の軍艦が沈んでいるので、海底で破損している状態の船を見て、長門かどうか確定できる人が取材陣の中にいないので、お願いします」と言う事でした。私は何にでも興味がある性格なので、相談された瞬間に、年末の山のような雑用を全部忘れて、「良いですよ、行きましょう」と答えて、出かけたわけです。 ところが、ビキニはとんでもなく遠い島だったのです。成田からサイパン、グアム、トラック、ポナペ、クエゼリン、と小さな飛行場を転々として、メジュロに行きます。メジュロは、マーシャル自治政府の首都ですが、当時国際便は週に数便だったと思います。

 メジュロで、事前にチャーターした深田サルベージの潜水艇母船「新日丸」と合流。18日に出港、そしてビキニ環礁に入ったのが20日だったのです。日本を出て8日目です、さすがにくたびれました。

 事前調査と、当日測深儀で目星をつけた大きな沈船の近くに停泊し、翌21日、早速「新日丸」が搭載してきた潜水調査船「はくよう」に乗り込みました。「はくよう」は350メートルほどの潜行が出来るということでした、ビキニ環礁内は、だいたい深さ50メートルくらいですから、難しい調査ではないと言われました。私は「はくよう」に付いている緊急浮上用のバラストを見て、整備の人に「これ、チャンと落ちるのでしょうねー」と聞くと、「分かんねーなー、何しろ使ったこと無いから・・」。そりゃ、そうでしょうけど・・。

 とにかく早速張り切って非常に狭い艇内に入ったのですが、頭の上でバタン!とハッチが閉められた時は、チョッと怖かったものです。艇長はニヤニヤしながら、私の不安そうな顔を見て笑っている・・ような気がした・・のです。身動きできないような狭い球状の艇内に乗員2人、お客(私)が一人乗るのですから大変です。それこそ、チャンと浮き上がれるのだろうなあ・・。と思いながら海底に向かったのです。

 間もなく、薄暗い海底に巨大な鉄塊が見えてきました。艦首をやや上に向けた姿を見た瞬間、特徴のある船体形状から長門と確認できました。しかし、ここで「長門で間違いありません」と言って、はい、確認終了、浮上します。と言われたら、ここまで来た甲斐がありません。「確認のために、船体の周囲を回ってください」と注文して、窓に顔を押し付けて長門を見つめました。このときの約1時間の海底での興奮は、今でも忘れられません。長門は、ほぼ転覆状態で、折れた艦橋が横に飛び出していました。ビキニ環礁は、サンゴ礁ですから、泥というものが無いので、海底はきれいな珊瑚の砂で、長門の船体も比較的きれいな状態でした。ゆっくりと艦尾を回ってから、「長門で間違いないですよ」と言って、浮上しました。

長門の艦尾部分

「はくよう」の窓から私が撮影した長門の艦尾部分です。ストロボが弱く、不鮮明ですが、スクリュー・プロペラと、右に舵の一部が見えています。

 当時私は、財団法人史料調査会に勤務していましたが、調査会では毎月技術関係者を中心とした勉強会があり、ここで報告をさせられました。このとき、呉工廠で大和の設計主任であった牧野茂さんが、最前列でじっと私の報告を聞いていました。私が、長門の損傷状況から、沈没経過を、「艦尾の損傷部からの浸水で沈み始め、艦尾が海中に入った段階で右舷に転覆、艦尾が海底に衝突してから、全体が海底に横たわったと思います。乗員がいれば沈むような損傷ではなかったと思います」というと、牧野さんが、「大体そのとおりだろう、しかし、見えない側のバルジに、更に損傷があるかもしれない」と注意してくれたのを覚えています。

 私の仕事は、これでおしまい。後は他の人がいろいろ島の調査などをしている間、デッキチェアをビキニに持ってゆき、しばらく陸上生活をしました。

 ビキニ調査で忘れられないことに、チャーター機で上空からビキニを見たとき、エメラルド色の環礁の海底の一部に丸く黒々とした影が見える海域があることに気がつきました。ここは海中爆発実験の爆心地で、海底が半球状に削り取られて深くなっているので、黒く見えるのです。

 夢の中に出てきそうな美しい島に残された原爆の傷跡を見て、胸が詰まりました。 この旅は、いろいろな事を考えさせられて有意義でしたが、最後に服を入れた旅行カバンがひとつ行方不明になり、大晦日近い真冬の成田空港に、半そでのTシャツで降り立つという「寒い」結末になったことも、忘れられない思い出です。