今日は、広島に原爆が投下されて65年目に当たります。以前、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館で行われた、原爆投下機B29エノラゲイの特別展示を見ましたが、展示は当然ながらアメリカ側の考えで行われていて、出口には感想を求めるアンケートが置いてありましたが、展示を見た後では、原爆投下はやむを得なかった・・と思うような流れの展示でしたので、多くのアンケートも、そのような結論だったようでした。
当時B29は分解されて、胴体と翼の一部が展示されていましたが、その後航空宇宙博物館の新館が出来たときに、完全に組み立てられて展示されました。この組み立てられた状態のB29を見たときは、B29=巨大な爆撃機、というイメージがやや薄れ、案外に小さく見え、この小さな飛行機が一機で広島を破壊したのだ、と思うと名状しがたい気持ちになったものです。
原爆の投下に関しては、アメリカにはアメリカの考えがあり、日本には日本の思いがあります。アメリカの考えだけが正しくて、日本側が間違っていると言うことはありません。しかし、日本側の考えだけが全て正しく、アメリカの考えが全て間違っていると言い切ることも出来ないことです。答えは、二つの大きく異なった考えの間に存在するのではないでしょうか。この大きな考えの隔たりの中から、答えを探し出すのが、私たち後世の人間の仕事なのではないかと思います。
式典には、アメリカ大使を初め核保有国と国連事務総長の出席がありました。これは、核兵器の存在が、一国の安全保障上の問題ではなく、人類の安全保障の問題であるという認識の段階に進んだことを表しているのではないかと思います。これは大きな一歩であると思います。
大和ミュージアムでも、原爆関連資料の展示を行っていますが、最近、いくつかの新たな原爆投下後間もない時期の写真資料を公表しました。写真は、原爆の破壊力のすさまじさを記録した映像で、今後慎重に解析を加えることによって、貴重な情報を後世に伝えることが出来ると思っています。
話は変わりますが、当館の10分の1大和は、誰がどうやって造ったのですか。と聞かれることが、今でも度々あります。当館の大和ほどキチンと作り込んだ船舶模型は、そのスケールと共に世界でも滅多に見ることの出来ない物と自負していますが、それだけに見る人の興味も高まるのだと思います。
10分の1大和は、音戸の山本造船が製作したものです。山本造船は3代目と言いますから、小さいながら歴史のある造船所です。大和の船体基礎は山本造船の指導で三井玉野に外注され、山本造船に運んで完成させた後に進水式を行った上で、建設中だった大和ミュージアムに搬入されました。建物が完成した後では、船体が大きすぎて搬入出来なかったのです。
以後、館内で山本造船の棟梁始め、山本造船が集めた専門スタッフの手で艤装が進められましたが、山本社長は、「よその土地の業者だったら、完成後は居なくなってしまうが、山本造船はズット地元で仕事をするのだから、いい加減な物を作って、何時までも、変な大和はお前が作ったのか。と言われるわけにはいかない」と言い、最後には私に、「戸高さん、もう採算の問題ではない、気になるところは全部言ってください、最後までやります」と言ってくれたのを覚えています。こうして完成したのが当館の10分の1大和なのです。私は、山本造船ばかりではありませんが、こういった地元の人の情熱が集まったことが、大和ミュージアムを成功させた大きな要因と思っています。同時に、当然利益も大切ですが、最後は良い物を作る方が大切・・という気持ちが、呉の物つくりの魂であると思いました。
更に、出来上がった大和ミュージアムを大きく育てて行くために、多くの地元の皆さんがボランティアとして、館を支えてくれて居るのだと思っています。
大和ミュージアムのような施設は、地元や周囲の方々の支援無しでは成り立たないものなのです。この意味で、大和ミュージアムは幸せな館だと思っています。そして、今後も多くの方々の力を頂きながら、頑張って行きたいと思っています。