博物館や資料館にとって、館の設立コンセプトに関わる資料は、館の存在理由そのものです。呉市海事歴史科学館(愛称、大和ミュージアム)にあっても、資料こそ館の命と思っています。当然ながら大和ミュージアムを名乗るからには、大和の資料を持たねばならなりません。ところが、現実には戦艦大和の資料というのは極めて少ないのです。大和関連の資料は極秘扱いであったために、終戦の際に殆どの資料が焼却されてしまい、公式には何も残っていなかったのです。戦後生まれの私などは「何も技術資料を焼くことはないのに・・」と思うのですが、当時の人間にとっては深刻な問題だったのでしょう。呉海軍工廠でも終戦直後、明治以来営々と蓄積してきた技術資料を焼く煙が一週間も絶えなかったといいます。
しかし、大和に直接関わった担当者の中には、如何に命令であっても、心血を注いだ記録を焼くに忍びないとして、密かに保存した人も居ました。
私が大和ミュージアムに着任することが決まった時、真っ先に考えたのは、大和ミュージアムを名乗るからには、現存する大和関係の資料の大部分は何としても収蔵しなければならない。そうで無ければ、愛称とは言いながら大和を館名にすることは「不当表示」ではないか。と言うことでした。平成17年の開館当時に私が存在を確認し、把握していた大和関連の資料と言えば、
- 大和基本計画のスタッフであった、松本喜太郎氏の保存資料
- 大和設計主任であった、牧野茂氏の保存資料
- 大和計画に影響を与えた、平賀譲氏の保存資料
- 戦後旧海軍技術資料全般を収集した、福井静夫氏の保存資料
- その他
などが大きなものでした。中でも明治以来の海軍造船に関する技術資料のコレクションとしては最も網羅的でかつ膨大な量であった福井静夫氏の資料は既に呉市で入手していました。実は福井静夫氏は、私が以前勤務していた財団法人史料調査会の理事であり、私の上司でした。当初福井資料は、機会を見て史料調査会に移管することに決まっていましたが、平成6年に呉市から新しい資料館(大和ミュージアム)のために入手希望の打診があり、私も呉市と福井氏の両方から相談を受けていたのです。私個人としては、困ったなあ、と思ったのですが、貴重な資料の万全な保存管理という面から、呉市におまかせすることにし、私自身が概略目録を造って、やや複雑な気持ちで呉市に送り出したのです。
福井資料の中には、大和の公試運転中の原画写真をはじめ、大和関連の写真の殆どがこのコレクションにあります。
しかし、技術資料としては、開発経緯と実際の建造に関わる資料が無くてはなりません。そこで私は松本氏と牧野氏のご遺族にお願いして、保存資料を頂くお願いをすることにしたのです。幸い私は松本氏とも牧野氏ともお元気なころからいろいろお世話になっていて、両氏が亡くなられた後には、ご遺族から保存資料の整理を依頼されていたので、どのような資料が残っているかは把握していました。特に松本氏が亡くなった後、松本氏の著作と雑誌論文を集めて、遺稿集とも言える「戦艦大和・武蔵設計と建造」(ダイヤモンド社で発行)を編纂するという縁があったので、ご遺族からも大変協力的に全ての資料の寄贈を快諾して頂きました。この中には、大和の初期計画から完成に至る試行錯誤の後を辿ることの出来る貴重な資料が、綺麗なファイルとして纏めてあり、特に大和の最も重要な図面である、軍機の最大中央横断面図は、松本氏が終生他人に見せなかったものです。
次いで、牧野氏の大和資料も、その全てを奥様から頂くことが出来ました。牧野氏は先の史料調査会の顧問格であり、私は良くお話を聞いていました。また、牧野氏が「戦艦武蔵建造記録」(アテネ書房)を監修されたときには、資料の整理などを手伝いました。お陰で平成6年に完成した本を関係者と共に氷川神社(戦艦武蔵の艦内神社には、武蔵の国一宮氷川神社のお札を頂いていた)に納めて出版記念会を行ったときにも同席しました。当然ながら戦後生まれは私だけでした。「戦艦武蔵」を書かれた作家吉村昭氏も同席されて、和やかな会でした。
牧野氏の資料には、大和の他、同型の武蔵、航空母艦に改造された信濃などの資料があり、これで大和型戦艦の現存するオリジナル資料の90パーセントは大和ミュージアムに収蔵されることになったのですが、まだ充分とは思いませんでした。
日本の艦艇建造の歴史に於いて欠かすことの出来ない偉人とも言うべき平賀譲氏の資料があるからです。昭和63年ころ、私は牧野氏に「平賀先生の資料が少しある、整理を手伝って欲しい」と言われてご自宅に行くと段ボールが10数個積んである。「戸高君頼むよ」と言われ、数年かけて整理し、平成2年に平賀氏ご子息の重孝氏と牧野氏、先の「戦艦武蔵建造記録」の編者である内藤初穂氏と私の立ち会いで東大に納めた。この資料はその後詳細目録作成に入り、平成19年に完成、全ての資料のマイクロ化を終えて、その一組を大和ミュージアムに収蔵することが出来ました。
このような経緯で、大和及び同型の武蔵、空母に改造された信濃と、大和にまつわる基本資料は、ほぼ全ての収蔵に成功したのです。
しかし、これで資料の収集が終わったわけではないのです。技術というものは、単独では存在しないのです。全ての技術は、過去の成果の上に成り立っていますから、大和を頂点としたあらゆる背景に関わり資料を集めるという、気の遠くなるような作業が待っているのです。
大和ミュージアムは、より良い展示と、より充実した資料の蓄積に、いつまでも努力を欠かさない博物館でありたいと思っています。