綺麗な秋空を見ていたら、昭和39年10月の東京オリンピックを思い出しました。
東京でオリンピックが開催されることが決まり、突然のように東京中が煮えたぎるような工事が始まり、一気に首都高速や新幹線が出来ました。それまでは、隅田川には防潮堤は無く、川岸に歩いてゆけば、そのまま川面が見えたのです。また、高速道路を作るのに、土地の買収をする時間が無いために、首都高速は、殆どが川の上に作られました。首都高速の地図は、多くがそのまま昔の川の地図です。日本橋の上に高速道路を作っているのを見て、中学生だった私も、さすがに、これは酷い・・と思ったものです。良かったことは、原宿の米軍関係者家族の住宅地だったワシントンハイツが返還されて、オリンピックスタジアムが建設されたことです。丹下健三の巻貝のような建物は、当時はあまり評判は良くなかったと記憶します。
9月になって、新学期が始まると、ある日全校生徒に知らせが有り、聞けば、東京オリンピックの予行演習が有るとのことで、正確に開会式にかかる時間を測るために、本番と全く同じ人数で、全く同じスケジュールで開会式の予行演習をやるというのです。へーっと、他人事のように聞いていたら、何と都立高校の生徒を狩り出して、各国の選手団にするというのです。私の高校は、都立忍丘(しのぶがおか)と言うのですが、浅草橋の鳥越神社の近くにあり、九州の松浦藩の江戸屋敷跡を学校にしたもので、校庭には江戸時代からの池と、巨大な銀杏の木が聳えていました。
突然、生徒の反応が高まりました。どこの国の選手団になるのだろう?どの国の選手団になるかは全く分かりませんが、ギリシャの次からはABCの国名順に、既に確定している選手団の人数を機械的に振り分けるわけです。
数日後、発表があり、私は何と偶然に日本選手団団員となったのです!チョット興奮しました。実際の予行演習は、10月3日ころだったと思いますが、晴れた日でした。代々木の国立競技場には、制服姿の高校生が数千人集まりました。無論当時は黒の詰襟の学生服です。私の高校の女子はブレザーです。競技場の外で各国選手団に分けられて、プラカードを持った先導員に従って入場するのです。
緊張しながらスタジアムに入った瞬間、本当に鼓動が早くなりました。それでもキチンと列を乱さないように綺麗に行進しながら客席を見ると、観客席も一杯のようでした。メインスタジアムの前を通るときは、もう本物のオリンピック選手になったような気になっていたのだから、良い気なものです。
順次誘導されて、絨毯のように綺麗な芝生のトラックの中に整列しました。本番と全く同じタイミングで式が進み、チョット一段落かなあ・・と思ったとき、突然ジェット機の轟音が聞こえ、見上げると空に見慣れた5機の航空自衛隊のF86戦闘機が横並びで飛んで来ました。その瞬間、5機は白いスモークを噴出し大きく円を描き始めたのです。ウオーッ・・と競技場がざわめくうちに、少しずれた5輪が見事に空に描かれたのです。雲の5輪は、ゆっくりと流れて行きました。飛行機が好きで、子供の頃から良く見ていたF86なので、ことさら感激しました。あんな事が出来るのだ・・開会式のデモンストレーションとしては最高だ、と思ったものです。
もう、ここで記憶が途切れそうになるのですが、実は、この予行には続きが有り、開会式が終わると、そのまま閉会式の予行に入りました。お寺の梵鐘の音をイメージした音楽が流れ、無事に予行は終わりました。ぐったりとして帰りました。
一週間後、本番のオリンピック開会式はテレビで見ました。前日は嵐のような激しい雨で、夜になっても雨はやみません、どうなるかと思いましたが、夜が明けると雲ひとつ無い完璧な秋空です。陸上自衛隊が祝砲を撃ちましたが、101発だったような記憶が有ります。開会式が始まり、テレビで日本選手団が赤いブレザーを着て行進する姿を見て、自分が行進しているような気持ちになりました。そして、再びF86が登場し、本番では五輪マークと同じ5色のスモークを出して、今度は完璧な5輪を描きました。このジェット機で5輪を描くというアイデアは最高でした。しかしこれは本当に難しいようで、以後他の国で実施したことは、多分ないと思います。ゆっくり流れてゆく巨大な5輪の雲は、東京中から見えました。(追記:他の開催国でも実施があったようです。ご教示いただきました)
予行演習に駆り出された生徒には、オリンピックの入場券が数枚ずつ配られ、私は重量挙げと、もう一つ、とにかく人気の無い競技の余っている券を貰いました。アルバイト料だったのですね。そして、暫くしてから、一枚の写真を貰いました。それは、メインスタンドの前を行進している日本選手団(予行の)写真でした。記念撮影のカメラマンも本番同様の撮影をしたので、他の生徒も各国選手団としての写真を貰いました。無論私が歩いているのです。この写真は、私の東京オリンピックでの最大の思い出になりました。