昨日(5月30日(金))「戦後80年 昭和館・大和ミュージアム 合同企画展」がスタートしました。この合同企画展は、戦後80年という節目の年を迎え、戦争展示を担う2つの博物館(昭和館、大和ミュージアム)がそれぞれの切り口で昭和の時代を展示・紹介しています。昭和館(東京都千代田区九段下南1-6-1)は、「この世界の片隅に」のストーリーを辿りながら、戦前から戦後に至る呉に生きる人々やくらしを扱っています。また、大和ミュージアムは、大規模リニューアルで休館のためご覧いただけない常設展示の資料や、初公開資料を展示しています。
やはり「多くの命を失った太平洋戦争への記憶を表したい」という思いから、大和ミュージアム収蔵品の中から、当初、展示予定のなかった二つの資料を選んで展示に加えました。
一つは、戦後戦記文学の代表作ともいうべき「戦艦大和の最期」を執筆した𠮷田満氏が、多くの戦死者を偲び、亡くなるまで身近においていた戦艦「大和」の銀模型です。
もう一つは、同じく多くの若い戦死者を偲んで、高松宮喜久子妃殿下が詠まれた和歌です。
この二つを、深く戦死者に思いを馳せた資料として同じケースに並べて展示しました。
𠮷田満氏は、私がまだ若かったころ、原宿の水交会で行われた海軍関係者のパーティーに参加させていただいたときに紹介されて、少し話を聞いたことがありました。このパーティーには、源田実氏などが出席し、後の総理大臣中曽根康弘氏など多くの有名な海軍士官が参加し、華やかな会でした。このパーティーに私を呼んでくれた土肥一夫氏は、太平洋戦争中は井上成美氏、山本五十六氏、古賀峯一氏などの歴代長官の参謀だった人で、その時、「戸髙くん、𠮷田さんがいるから紹介しよう。」と言って、紹介していただきました。私は、「あの𠮷田満さん!」と、やや緊張して挨拶すると、驚くほど丁寧に自己紹介していただきました。短い時間の中、海軍時代の話を聞きましたが、「私はあまりお役に立っていませんので、お話しできることは沢山は無いのです。」と静かに言われたことを記憶しています。片目が義眼であったので、戦傷かと思いましたが、これは戦後の事故だと聞きました。
𠮷田氏が亡くなった後、ご自宅にお伺いして奥様から頂いたのが、今回展示した大和の銀模型なのです。
この時、𠮷田氏の話も聞きましたが、話の中で奥様から「うちの𠮷田は、下が長い、土の田で、普通の下の短い士の吉田ではないのよ。」と言われたことが、なぜか深く印象に残っています。
もう一つの、高松宮喜久子妃殿下の和歌は、妃殿下も薨去され、高松宮家が絶家となることが決まった後で、阿川弘之先生から、「高松宮殿下の記念品を少し頂いておいたら良いのでは。」と言われ、1980年ころからお世話になっていた、旧知の高松宮家宮務官の佐藤進氏に電話したところ、「戸髙さん、大和ミュージアムの館長になったのでしょ。海軍関係の物ならば必要なだけ全部差し上げますよ。」とびっくりするような言葉をいただき、生来遠慮のない私は、宮様の海軍時代の品を大量に頂き、大和ミュージアムに収蔵しました。この時、妃殿下の和歌も頂いたのが、今回展示したもので、
海原に はた大空に散華せし
君ら聲なく いく春やへし
というものです。
高松宮様がお元気な頃は、宮様に高輪の御殿でお目にかかる機会が何度かありましたが、
宮様がご薨去後は、4回か5回、御殿で妃殿下にお話を伺う機会がありました。その時、この歌の話があり、「予科練の戦友会関係団体の依頼で詠んだもの」、と伺いました。その時、「『いく春や』か『いく年や』、どちらが良いかを考えた」、というような話を聞いた記憶があります。
私は、『きみら聲なく』に何とも言えない思いを感じました。亡くなった人は、「苦しい、悔しい、残念」など何も言えないのです。幸運に恵まれて生き残った人だけが、「苦しかった、悔しかった、残念だった」と言えるのです。だからこそ、生き残った人は何も言えない戦死者に代わって言い残すべきことがあるのだと思ったからです。
妃殿下の書は、有栖川流という書道の流派で、妃殿下は家元なのです。ゆったりと筆を上下させながら書かれた文字は、温かみを持った素晴らしい書です。この書は、大和ミュージアムではなかなか展示の機会が無かったのですが、今回初めて公開することが出来ました。戦死した若者に対する妃殿下の深い思いを感じて頂きたいと思います。
上記合同企画展は、6月5日(木)までの短い開催期間ですが、ぜひご覧になって頂きたいと思います。
場所:広島市中区加古町4−17 JMSアステールプラザ1階市民ギャラリー
時間:10時~17時
料金:無料