私が大和ミュージアムに勤務するために呉に来て20年になりますが、厳密には大学生の頃一度だけ呉に来たことがあるのです。
それは昭和44年の9月、アルバイトをしたお金で、長崎佐世保まで、海上自衛隊の観艦式で護衛艦の写真を写す撮影旅行に行ったので、その帰りの9月8日に呉に寄ったのです。
呉の駅から海に向かうと、あまり人影もなく、自衛艦を見ることができる場所を聞こうにも、だれもいないのです。仕方なく海沿いをとぼとぼ歩いて海上自衛隊の潜水艦桟橋に行くと、古臭いタイプの潜水艦が見えました。当時既に保管船となっていた「くろしお」です。海上自衛隊がアメリカから供与された潜水艦で、典型的なアメリカ海軍のガトー型潜水艦の姿そのままです。もう使わないのだから、邪魔にならないような場所に係留していると思っていたところ、現役の潜水艦と同じ場所にいたので、ちょっと驚きました、そこでは潜水艦「おおしお」が、メンテナンスのためか、海上クレーンで潜望鏡を抜いている最中でした、潜望鏡の全体が見えるのは珍しいシーンだなあと、間近で潜水艦を見るのは初めてだったので、興味津々で見学しました。
写真は、この潜水艦桟橋で撮影した「おおしお」です。左に骨董品的な姿を見せているのが、「くろしお」です。この時の呉の記憶は埃っぽい印象でした。
因みに、確か「くろしお」の回航員だった(と記憶しています)井上龍昇(兵学校68期)さんは、第一術科学校の校長をされたこともある方で、時々話を聴く機会が有りました。井上さんは生粋の潜水艦乗りでした、海軍時代に最後に乗ったのが潜高の伊201型潜水艦で、その艤装員として水中全力公試の際の思い出を聞きましたが、「戸高さん、当時はね、水中18ノットを超えると言うのは、今思えば飛行機が初めて音速を超えるような緊張した気持ちでしたね」。と話してくれたことがありました。
話は戻りますが、当時まだ海上自衛隊の潜水艦部隊は発展途上期で、訓練潜水艦ばかりだったと思います。
この後、フェリーで江田島に行き、第1術科学校を見学しようと思ったのですが、見学時間の都合で1時間以上待つことになったのです、そこで今と違って、私もまだまだ元気だったので、古鷹山に登ろうと、大体の道を聞いて出かけました。とにかく走るように登ったので、ちゃんとした道もないような所をよじ登った記億があります。頂上ではさすがにグッタリしましたが、記念にこの情けない姿をセルフタイマーで写して下山しました。
当時はバスやタクシーを使うような気はなく、どこへ行くのも、ひたすら歩いたものです。
江田島からはまたフェリーで広島に渡り、原爆ドームなどを見学して東京に帰りました。
当時写真は自分で現像も焼き付けもしていたので、しばらくは、写した写真を焼き付けては楽しんでいました。もっとも、部屋中が酢酸臭くなるので、母親には嫌がられていました。
呉に着任が決まり、初めて呉に来てから40年近く過ぎて呉線に乗って、またこの呉に来ることになった時、何か運命的なものを感じたものです。