8月29日、当館は、開館以来累計600万人の来館者を迎えました。約5年と4ヶ月で、この数字に達したことは、有り難い事と思うと同時に、大きな責任を感じます。ここまで来るのに、随分長かったような、また、随分早かったような、複雑な思いです。私のような館長が、無事に務まってきたのも、多くの人の助けのお陰です。改めて感謝いたします。
さて、館長というのは、館の営業部長の様な仕事が多く、東京に出ることが多いのですが、最近の東京で目に付くのは、何と言っても、東京スカイツリーです。完成したら634メートル、武蔵の国だからだそうですが、つまらない語呂合わせしないで1000メートルにすればよいのに・・とか思います。
とにかく、これは想像を絶した建造物で、東京タワーで育った私には、驚きです。東京タワーの方は、私が小学校3年の時に完成したので、東京タワーの建設中、まだ台形だった姿を微かに覚えています。クラスのペンキ屋さんの子供が、東京タワーは父ちゃんが塗ったんだ・・と威張っていました。昔は、迷子になっても、東京中のどこからでも東京タワーが見えるので、何とか方角は分かったものですが、今の東京タワーは、ビルの中に埋もれてしまっていて、遠くからは探すのに苦労します。
思えば東京の変わり様は、言葉もないほどです。小学校の頃、海洋少年団に入っていたのですが、月に一回位、隅田川の勝鬨橋脇の海上保安庁水路部にあった、カッターの艇庫から、カッター(ライフボートで、いわゆるカッターよりも、やや小さかったような気がしますが、はっきりしません。体の小さな団員は、オール一本に2人付きました)を出して、お台場まで漕いで行き、お台場に上陸してお弁当を食べて帰るという、ピクニックのような訓練をしました。(と言っても、手のひらの皮を何度もむきました)艇庫から、浜離宮脇の水路をぬけて、東京湾に出ますが、艇庫のあった水路は、今は首都高速道路になっています。そして、その当時の私が必死に漕いでいた辺りは、現在船の科学館がある辺りで、今や埋め立てられて全部陸地です。ちなみに、当時の海洋少年団の本部は霞ヶ関の海上保安庁の一部にあって、何度か用事があって行きましたが、今思うとあれはもともと海軍省だったビルの一部を、そのまま使っていたのです。子供心にも、随分古くさい感じがしたものです。はっきり記憶しませんが、海軍省の大きな無線塔もまだあった様な気がします。
艇庫のあった、当時の海上保安庁水路部は、海軍水路部時代の煉瓦の建物をそのまま使っていたので、こちらも古くさいなあ、と思ったものです。今は朝日新聞社の本社が建っています。
ここは、海軍兵学校発祥の地であるばかりでなく、その前身の海軍兵学寮、海軍大学校等があったところです、秋山真之ら後の提督たちも、この築地で海軍兵学校に入学したのですから、私と同じ場所でカッター訓練をしたはずです。また、隣接の勝鬨橋脇には、海軍経理学校もありました。一時、海軍省も有ったという、極め付きの海軍ゆかりの地なのです。この辺りは、関東大震災後に日本橋にあった魚河岸が移転してきて、今の築地魚市場になったのです。またまた話は飛ぶのですが、今はニュースなどでも、「築地市場」を(つきじしじょう)と言いますが、気になって仕方ありません。あれは昔から魚河岸(うおがし)か、築地の(うおいちば)としか言いませんでした。しじょう・・と言われると、どうしても違和感があるのです。言葉としても、(いちば)と(しじょう)は、意味が違うと思うのですが。
築地に魚市場が来たので、築地の海軍関係施設の中から、海軍大学校が目黒にあった、陸軍火薬廠跡地に移転したのです。戦後その目黒の海軍大学校の建物の一部の払い下げを受けて使っていたのが、私が勤務していた、(財)史料調査会なのですから、世の中は狭いなあ・・と思います。
私のいた史料調査会の建物は、海軍大学校の化学実験教室だった建物です。日米開戦前、隣接の図上演習講堂で、ハワイ作戦の図上演習をした場所です。史料調査会の建物は、10年ほど前に解体されてしまいました。史料調査会は貧乏財団で、建物を改修するお金が無くて、戦前そのままの姿で使っていました。私などから見れば、却って貴重なので、なんとか保存出来ないかなあ、と思っていたのです。残念です。解体したときに、記念に、建物のカケラを持って帰りました。
史料調査会は文部省の財団法人でしたが、設立者は終戦時の軍令部作戦部長、私がいた頃の会長も、私の上司も連合艦隊参謀経験者という骨董的団体で、一歩ドアを入ると、外とは全く別世界でした。無論全関係者の中で、戦後生まれは、主任司書の私一人きりでした。
ここで教えられたことが、現在の大和ミュージアムの仕事の中で役立っていることはとても多く、どのような経験、勉強も、どこかで活きてくるものだなあ、と強く思っています。