今年も11月半ばを過ぎ、間もなく師走です。気の早い私は、もう「今年も忙しかったなあ・・」と、思ったりしています。

 今年は大和ミュージアム開館10年と終戦70年が重なり、多くのイベントを準備して忙しく始まりましたが、そこに突然のように戦艦「武蔵」がフィリピンで発見され、いきなり数十本の取材を受けるなど、大変な年です・・まだ続きますから。

戦艦「武蔵」主砲公試

 その中でも私にとって大きな事件だったのは、戦艦「武蔵」の主砲発射(多分、公試発射と思います)写真でした。私の知り合いが「こんな写真があるのですが本物でしょうかね?」とメールをくれました。見るとすぐに大変な写真だと思い、所有者である永橋様にお会いして準備中の特別企画展「日米最後の戦艦展」のためにお借りしました。ただ、写真は逆光なので大和型であることは間違いありませんが、細部は黒くつぶれているので、大和なのか、武蔵なのかは、写真からは判断が困難でした。しかし永橋様は戦艦「武蔵」の初代砲術長の御子息であり間違いないと思いましたが、私としては大和型としてきました。

 なぜ気になったかというと、戦艦「大和」の設計主任であった、牧野茂(技術大佐)さんから、「大和が出来上がった際に、主砲を発射している写真と500分の1くらいの模型を天皇陛下にお見せした」「普通はそのまま宮中に献上してしまうのだが、こればかりは、と持ち帰り焼却することになっていたが、すぐに焼くこともないだろうと暫く艦本に置いておいたが、終戦時には焼いたと思う」との話を聞いており、この写真は天皇に見せた戦艦「大和」の主砲発射の写真ではないか、武蔵砲術長にはこの写真を参考資料として渡したのではないか?と思っていたからです。

それから特別企画展が始まり、毎日のようにこの写真を見ているうちに、あるいは・・と思い当ることが有り元の画像データを極度まで拡大したところ、艦橋上部から左右に出ている信号ヤードの左端に並んで薄く2つの突起を確認しました。アッと思いました。これで「武蔵」という事が写真から確定出来たのです。

 実は、戦艦「大和」と「武蔵」の相違点は微細な個所まで探すと数十個所あります。どれもあまりに細かいので今回の写真では判断できる箇所は無いと思っていました。しかし、有ったのです。艦橋の上部から左右に伸びている信号ヤードの先端にある風向風速計のレイアウトが、「大和」は風速計の上に風向計が乗っていて一体になっているのに対して、「武蔵」では風速計と風向計とが別々に設置されているのです。そこで先の写真を拡大して見直したところ、ヤードの先端には2つの小さな突起が微かに見え、これで私も安心して戦艦「武蔵」の主砲発射の姿だと確信できました。

 写真のことでもあり同型艦なのだから、そんなに気にしなくても良いようなものですがそこはやはり確定したいのです。

 この写真は、前部の1・2番砲塔の発射で後部の3番砲塔は発射していませんが、これは色々な条件下での発射をテストしたためと思っています。恐らく前部2砲塔の、それぞれ2門ずつ、4門の発射かと思います。

 さて、先の牧野さんの話にある天皇陛下にお見せしたという戦艦「大和」の模型ですが、恐らくこれがそうであろうと思われる写真が残っています。サッパリした造りですが、プロポーションの良い模型です。

 ちなみに、昭和天皇実録を読むと、昭和18年に天皇が「武蔵」に行幸したいとの意向を海軍大臣に伝えています。この時は、海軍大臣は「何か戦果を挙げてお褒めの言葉を頂く際にお願いしたい。」と言うような理由で断っていますが、間もなく再度「武蔵」に行きたいということで、有名な「武蔵」行幸が実現したという記述がありました。よほど「武蔵」を見てみたかったのだろうなあ、と思いました。「武蔵」が選ばれたのは、当然ながら連合艦隊旗艦であったからで、もしもこの時連合艦隊旗艦が「大和」ならば、「大和」に行幸されたのです。この行幸の際のエピソードは何人もの関係者から話を聞きましたので、いずれ書いてみようと思います。