今年は、終戦から65年目となります。つまり、大和が沈んでから65年という節目です。終戦60年目に開館した、大和ミュージアムも、5周年を迎えて、一層の運営努力をしなければならないと思っています。

 この65年という時間は長く、この間に多くの戦争体験者が、過去の戦争の実態を残そうと努力してきました。これは、単に自分たちの体験を残そうとしていただけではないと思っています。

 昭和50年代末から60年代初めにかけて、当時零戦パイロットの親睦団体であった、零戦搭乗員会が、日本海軍の戦闘機の歴史を残したいとして、多大な労力を費やして、「海軍戦闘機隊史」を編纂しました。この時私は、会長であった真木成一さんから、「戸高君、チョット手伝いなさい」。と言われて編集委員になりました。

翔鶴を発艦する零戦

翔鶴を発艦する零戦

 編集委員は18名で、16名が歴戦の零戦乗りで、編集委員長となった真木さんは、零戦よりも2世代古い90式戦闘機からのパイロットで、副委員長の志賀淑雄さんは、真珠湾攻撃のとき、空母加賀の戦闘機隊長として飛んだ人で、後に、零戦の後継機である烈風のテストパイロットをしています。更に空技廠の技術士官であった内藤初穂さんが加わり、私一人が戦後生まれでした。無論私に重要なお手伝いができるような能力は無く、編集会議でもおとなしく話を聞いて、雑用を手伝っていましたが、今思うと、皆さん、仲間同士だけの思い出に浸るような資料にならないように、全く世代の違う私を戦後生まれ代表としてメンバーに入れていたのかなあ、というような気がします。また、原稿の下書きなどが纏まると、よく、「戸高君、読んで見て、どうかな」。などと聞かれたのは、戦後生まれの人間が分からなければいけない、との思いだったのだと思います。

 編集会議は、実に真剣なもので、日本海軍戦闘機の歴史を、自慢話にならず、卑下もせず、資料に添って、実に冷静に方向を纏めていました。それぞれ執筆担当者は、きちんと元資料に当たって、丁寧な論文を提出しました。それでも、執筆者は単なる研究家ではなく、自分自身が操縦桿を握って戦場の空を飛んだ人たちですから、その文章には、第3者の書き得ない重さがありました。
提出された論文は、分量が予定の倍にもなり、作業の大半は、原稿の圧縮だった気がしました。今となっては、泣く泣く削除した箇所がもったいなく思え、全部出版しておきたかったなあ。と思うばかりです。

 こうして、昭和62年に600ページを超える姿で出版に漕ぎつけたのです。今読み返すと、本当に、この時に苦労しながらも編纂されたことに対して、感謝したい気持ちになります。このような、実体験のある人たちの努力が無ければ残らなかった歴史記録は少なくないのです。

 そして、戦争の無い、平和な時代に生きている私たちには、このような記録、体験を、きちんと伝えてゆく仕事が残されているのだと思います。