大和、武蔵は、極秘で建造されたので、竣工後も秘密保持の面から写真撮影も遠慮されたので、あまり写真が残っていません。海軍部内では、何年か後には、いずれ民間人に戻る下士官兵については、秘密事項が漏洩しないように、写真撮影などを制限していましたが、基本的に終身官であり、一生海軍から離れない前提の士官は、自由にカメラを持ち歩いていました。それでも、戦場でカメラを持ち出してスナップするのは、なかなか出来ないことなので、日本には重要な作戦でも記録写真が少ないのです。アメリカ海軍などは、戦闘記録用の写真撮影が戦闘配置という兵隊がいるので、無数の貴重な記録が残っています。太平洋戦争中、米海軍が撮影した写真だけで、数十万枚がワシントンDCの国立公文書館に保存されています。お国柄の違いでしょうか。
こんな中で、大和の写真と言えば、一番有名なのが、公試中の大和の写真ですが、就役後の写真で有名なのは、やはり、トラック島で撮影された大和、武蔵が並んでいる写真でしょう。
この写真は、当時駆逐艦潮の艦長であった神田武夫さんが撮影したもので、神田さんは、私が勤めていた財団法人史料調査会会長の関野英夫さんのお兄さんで、駒込の自宅によく遊びに行きました。このあたりは大正10年代に開発された住宅地で、何と大和村と言っていたのです。神田さんは、「子供の時から写真好きだった。支那事変の時ね、上海でライカを買った、面白いので、パチパチ写した。筑摩乗り組み(砲術長?)だったときも沢山撮影したなあ。大東亜戦争が始まって、駆逐艦長になったとき、よし、敵艦轟沈の瞬間を撮影しようと思って、いつも艦橋にカメラを置いておいた」と言うことでした。大和、武蔵が並んだ写真は、「余りに見事な姿だったので、写した」との事でした。「敵艦轟沈の写真を撮るチャンスはとうとう来なかった、結局やられた味方の船ばかり写すことになった。」と言っていました。いずれにせよ、標準レンズで両艦をピッタリと画面に納めた写真は、まさに傑作です。私が、この写真のネガフィルムは有るのですか、と聞いたところ「以前ね、靖国神社の宮司の松平永芳が来てね、これはよい写真だ、奉納してくれ。と言うから、プリントをあげるつもりで、良いよ、と言ったら、その場でネガを持って行ってしまった。乱暴なヤツだよ」と言って笑っていました。今も靖国神社で大切に保存されていることと思います。他に大和などの写真は写しましたか、と聞くと、いくつか遠景の写真を見せてくれました。大和は、やはり海軍将兵にとって注目の的であり、カメラを持っている人は気になったようですが、特に機密保持を注意されていたので、撮影のチャンスはあったが写さなかった、と言う人も多かったようです。
戦艦金剛の砲術士であった志摩亥吉郎さんも、戦時中沢山の写真を撮影し、ネガフィルムを保存していましたが、私が大和を写したこと有りませんか、と聞くと「大和ね、何度もチャンスはあったけど、近くで写した記憶無いなあ」と言って、暫くしてから「遠いけど、これは大和だよ」と一枚の写真をくれました。トラックでの姿で、遠景ですが大和の特徴的なシルエットです。
ご自分で撮影した写真ではありませんが、筑土龍男さんから「こんな写真があるから差し上げますよ」と頂いた写真があります。これは新聞記者が撮影したと聞きましたが、背景の戦艦が山城なら横須賀、扶桑なら呉で撮影された可能性が高いと思います。筑土さんはもともと潜水艦乗りで、終戦時は海軍省にいました、私が主にお世話になっていた頃は東郷神社の宮司で、温厚で易しいお爺さんでした。私が戦艦三笠の改修工事で出たチーク材を分けて貰ったときに、このチーク材で、知人に頼んで、お茶室で使う炉縁を作ったのですが、この時保存のために桐箱を作り、筑土さんにお願いして箱書きをして貰ったことがあります。
大和の写真と言えば、今も忘れられないのが、朝日新聞の従軍カメラマンであった、飯島宗二郎さんの事です。飯島さんは開戦以来北方作戦からラバウルまで、最前線で報道写真を撮影したのですが、晩年も一緒に晴海埠頭などに写真を写しに行きました。飯島さんが、戦前から「お茶はここ」と決めていたのが銀座の資生堂パーラーで、私も良くご馳走になりました。そんな中で、「戸高さん、私ねトラック島で大和写したことがあるのですよ」という話を聞きました。「内火艇を出して貰って、大和の周囲をぐるぐる回りながら、沢山写したんですよ」と言うのです。もうビックリして、写真は有るのですか。と聞くと「ネガフィルムを持っていたのですが、戦後引っ越しの時に、大量にあった戦時中のネガフィルムを全部無くしてしまったのです」との話でした。ご当人も残念そうでしたが、それ以上に私はガッカリしたものです。その話を聞いて以来、いつか何処かで発見されるのでは無いかと夢を見ています。
私は、海軍の人と話すと、必ず昔のアルバムを見せてください。とお願いするのか習慣だったので、随分色々な写真を見せて貰いましたが、数年前、雑誌のモデルアートに、南極越冬隊の隊長であった村山さんのインタビュー記事があり、小さく載っていた写真の背景に大和型の戦艦が写っているのに気が付き、すぐにインタビューをしていたプラモメーカー、フォーサイトの長田社長に紹介して貰って村山さんのご自宅にお邪魔してお話を聞き、アルバムを見せて頂いたことがありました。無い無いと言われる大和の写真ですが、探せばまだ有るのだと思います。