昨年末からNHKで始まった「坂の上の雲」は、NHKとして特に力を入れた作品で、今後の展開が楽しみです。言うまでも無く、この作品は司馬遼太郎氏の代表作の一つで、秋山兄弟を通して、近代国家へと育って行く明治の日本を描いたものです。司馬氏が、明治という時代を描くときに、その大きな部分を明治海軍によって描こうとしたのは、海軍の持つ近代性、合理性に共感したためであったそうです。司馬氏が、坂の上の雲の取材を始めたころ、横須賀の三笠で、正木生虎氏や福井静夫氏などに海軍の話を聞いたそうですが、これらの方の話を聞いて、司馬氏は本当に海軍ファンになったのです。

 当時司馬氏が、海軍に関する疑問を感じたときには、まず正木氏に質問したようですが、当時はまだ多くの古いクラスの海軍兵学校出身の方が居たので、司馬氏の取材は密度の高いものになっていたのです。

 正木さんは兵学校51期ですから、卒業は大正12年、当然明治海軍を直接知っているわけではありませんが、日露戦争などを闘った世代から直接指導された上に、正木氏の父、正木義太氏は、旅順港閉塞隊の指揮官として旅順港に突入した経験の持ち主であり、子どもの頃から、こういった話をよく聞いていたのです。

 正木氏は、私が勤めていた史料調査会にも良く本を調べに来ていましたが、白髪が美しい、物腰の柔らかな紳士で、後に高松宮のお付武官をしていました。その品の良い語り口調に司馬氏がほれ込んだのはよく分かります。時々近くに住んでいる、当時東郷神社の宮司だった築土龍夫氏が見えて、調査会の関野英夫氏、土肥一夫氏が揃って、私と5人で昼食を食べた事がありますが、話が日露戦争になると、みな話に熱がこもったものでした。何しろ正木氏の父は、旅順閉塞対の勇士、呉鎮の参謀長をしたこともあり、後の中将。築土氏の父、次郎氏は、第3戦隊の参謀で、後に少将。関野氏の父、謙吉氏は、開戦時戦艦八島の副長で、後中将。土肥氏の父、金在氏は戦艦敷島乗り組みで、後大佐。

 こんなメンバーの話ですから、私などにとっては、歴史上の話とばかり思っている日露戦争の話が、「親父はね・・」「私はね・・」と、目の前の話になるのです。戦後生まれの私にとって、こんな楽しい時間はありませんでした。

 こういった人たちから、多くの情報を得て描かれた、司馬氏の「坂の上の雲」が、文献だけからの構成では表現し得ない、当時の海軍の空気を伝えた作品になったのは、一面当然のことだと思います。

 さて、話を司馬氏に戻します。当時日露戦争に関して研究をしていた人に、島田謹二氏がいましたが、司馬氏ともよく連絡をしていました。1990年に島田氏の1200ページを超える大著「ロシア戦争前夜の秋山真之」(朝日新聞社)が出版され、神田の学士会館で出版記念会が開かれた際、私も島田氏に招かれて出席しましたが、指定の席に座ったところ、正面が司馬氏ご夫妻で驚きました。島田氏が司馬氏に、戸高さんは、とても若いけれど、今度の本では随分お世話になったのですよ。と紹介してくれたので、秋山や日露戦争の話になりました。司馬氏も、正木氏と同じく綺麗な白髪で、物腰の柔らかな話し振りも良く似ていました。私も、あんな綺麗な白髪の老人になりたいなあ、と思ったのを覚えています。

 表題に、司馬遼太郎氏の思い出、と書いた割には、話をしたのはこの一回だけで、思い出というほどの事は無いのですが、私にとっては、忘れられない思い出でした。