1983年1月、江畑謙介さんに、「戸高さん、エンタープライズに乗りにフィリピンまで行きませんか」と言われて、少々驚きました。当時エンタープライズが初めて佐世保に寄港することが報道されていて、私は機会があったら、遠くからでも良いから、世界最大の空母を一度見てみたい、と思っていたので、いつもの調子で、「あ、良いですよ、行きましょう」と、返事しました。

 江畑さんは、当時から有名な若手軍事評論家で、米海軍の広報部署などの動きに詳しかったので、早くから取材申請を出していたのです。この時の許可が、取材記者とカメラマンの2名、だったので、私に声をかけたわけです。江畑さんは以前から知っていましたが、海軍技術中佐で軍事評論家であった堀元美さんが、雑誌「シー・パワー」を創刊するときに、私に少し手伝ってくれないかと言われたのですが、この時堀さんが相談し、実際の作業を引き受けたのが江畑さんと軍艦研究家で有名な石橋孝夫さんで、私も時々少しだけ編集を手伝っていました。取材旅行であるために特別なビザが必要だったのですが、これがなかなか出なくて困ったり、色々ありましたが、何とか2月下旬にマニラに着きました。

 行く先は、フィリピンの米海軍スービック基地、マニラからバターン半島を越えて反対側です。タクシーでフィリピンの田舎道を行くと、水田の風景が日本の田舎のようで、驚きました。街道は、バターン死の行進として有名な道で、途中に大きな慰霊碑がありました。スービックは、本当に何もない町で、巨大な海軍基地があるばかりです。現在米軍は撤退し、基地は無くなっています。

  27日、基地に行き、岸壁に繋留されているエンタープライズに乗艦しました。巨大の一言です。

エンタープライズ

私が撮影して「シーパワー」1983年6月号の口絵を飾った写真

 艦長室で簡単な説明を受けたのですが、いつ出港するのですか?と聞くと、もうとっくに出港していますよ。と言われてビックリしました。全く分からなかったのです。その後、広報士官(こういった職務が正式にあるのです)の案内で艦内を見学、ゲームセンターからコンビニまである艦内には驚きました。宿泊の部屋を手配するおフィスには、「エンタープライズ・ヒルトン」と看板が出ていました。

 飛行甲板に出ると、エンタープライズは既にスービック湾を出るところでした。飛行甲板は、全て塗り直されて、ピカピカです。
飛行甲板の直ぐ下が居住区画ですが、艦内の四つ角に立つと、真っ直ぐ伸びた通路がどこまでも続き、船の前後左右が分からないほどです。デッキとフレームナンバーと左右舷を書いた部屋の住所が無いと、とても部屋に帰れません。大和でも新兵が迷子になったそうですが、良く分かりました。

 スービック湾を出ると、間もなくヘリコプターが数機飛び上がり、艦の右を併行して飛行します。これは、事故時の救難ヘリコプターですから、発着艦作業の始まりを意味するのです。早速カメラを準備して艦橋に上がりました。間もなく飛行機の発進が始まりました。驚いたことに、これ以降昼も夜も殆ど途切れずにあらゆる飛行機の発着が繰り返されたのです。その濃密な訓練スケジュールには感心しました。カタパルト発進のパワフルな迫力は素晴らしいものでしたが、着艦も凄いものでした。トムキャットなどが、滑り込んでくるのではなく、文字通り、飛行甲板めがけて飛び降りて来るのです。カメラのファインダーを覗きながら、良いアングルを求めて少しずつ飛行甲板に出て行き、いきなり後ろから、危ない、と米兵に引き戻されました。半日の訓練で、ピカピカだった飛行甲板も、着艦箇所はタイヤの跡で真っ黒です。

 夜は士官食堂で食事しましたが、真っ白なテーブルクロスの掛かったテーブルで、食器は陶器、後ろにはウエイターがずっと立ってサービスしてくれます。2日目は兵員食堂で食べてみました。どちらも美味しかったのを思えています。

 日没後も発着艦訓練は続き、部屋の天井はいつまでも、ズドン・・ズドン・・と着艦の音が聞こえました。飛行甲板にはビデオカメラが埋め込んであり、各部屋のモニターで常時見ることが出来るのです。いくつかチャンネルがあって、艦内ニュースなども流していました。大分遅く艦橋に出てみると、満天の星空です、目をこらすと、水平線がはっきり見え、双眼鏡で見ると、黒い背景の中に更に黒い貨物船のシルエットなどが見えます。私は、あ、これが晴天の暗夜なのだ、と思いました。かつて私の上司で、第3次ソロモン海戦の時、11戦隊参謀として比叡に乗っていた関野さんなどから、そう言った状態を晴天の暗夜と言うのですよ。南洋では真夜中でも船は良く見える、ただ水平線の下は真っ黒になるので、駆逐艦などが近寄ると見えなくなる。だから夜戦の時は低い艦橋に移って見通しを良くするんです。第3次ソロモン海戦の時も、いきなり見下ろすような近距離の暗闇からアメリカの駆逐艦が突っ込んできたものです。と聞きました。なるほどと思いました。夜間発着艦を見ていると、ゾロゾロと若い士官(多分候補生)が上がってきて、六分儀を使って、昔ながらの天測を始めました。GPS等が発達して、事実上は天測など不要なのですが、万一戦時下で衛星が使えなくなったり、電波妨害など受けた場合、やはりこういった能力が必要なのです。

 さて、一通り取材は終わったのですが、どうやって帰るのか聞いていませんでした。私はエンタープライズがスービックに帰ると思っていたのですが、そんな様子は無いのです。すると、飛行機でスービックに帰るように、と知らせがありました。乗るのは小型の双発輸送機です。飛行機で帰ると言うことは、そうです、カタパルト発進です。小型の双発レシプロ輸送機に詰め込まれて、チョット不安になった瞬間にカタパルトで打ち出されました。座席は後ろ向きにセットされているので、体が前に引かれ、安全ベルトに押し付けられます。ホントに怖かったです。暫くして飛行機はスービックに戻りました。

 こうして私の南シナ海でのエンタープライズ乗艦は終わりました。

 帰国した夜、成田は雨でした。この旅行は、大変興味深い物でした。原子力空母は、アメリカの世界戦略にとって重要な位置を占めるものですが、その内蔵する破壊力は想像することも出来ないほど大きなものなのです。いったい人間は、こんな大きな破壊力を持って良いものなのか。人間が、長い努力の結果掴んだ物が、巨大な破壊兵器であることに、何とも言えない矛盾を感じました。人間の、次の長い努力は、この矛盾の解決のためにあるのではないか。と思いました。