最近になって2024年5月26日、アワー氏が亡くなっていたことを知り、哀しい思いにふけりました。

私が初めてアメリカに行ったのは1980年11月下旬のことで、ワシントンDCの国立公文書館とペンタゴンで太平洋戦争時の日本海軍関係の資料調査収集をするためでした。

私は㈶史料調査会の司書として勤務していましたが、当時海軍関係図書の出版企画があり、要するに一番若い32歳だった私が、ワシントンまでお使いに行くことになったのです。

会長も直属上司も元連合艦隊参謀OBというようなメンバーでしたので、あまりに若い私に任せるのは心細かったらしく、会長か誰かは明らかではないですが、事前にペンタゴンの日本担当であったアワー氏に私の調査のアドバイスをお願いしたらしいです。「ペンタゴンの入り口でアワー氏を呼べばよいよ。」とだけ聞かされてワシントンに向かいました。ワシントンは『ただ寒い街』だったと記憶しています。

当時は東海岸までの直行便は無く、シアトルで国内便に乗り換えてワシントンに近い空港に降りました。その時は上記の出版企画に関わる予備学生出身の方が一緒でしたが、ワシントンに着くとすぐに別の仕事が有るとかで別れて一人になりました。

翌日か翌々日にペンタゴンに向かい、ゲスト用のゲートに向かいました。ペンタゴンは部内の人間が直接案内する場合以外は、部外者は建物には入れませんでした。「アワー氏に面会予定です。」と告げると、間もなく人懐っこいにこやかな男性が現れました。アワー氏でした。アワー氏の日本語は素晴らしく流暢で、今でも英会話は全くダメな私はホッとしました。

用件は既に分かっていたので、ペンタゴンの中を案内してくれましたが、ペンタゴンの名の通り五角形のビルは、歩いているうちに自分がどの方向を向いているのか分からなくなりました。

中央の広い廊下の両面に歴代大統領の肖像画が飾ってある場所があり、有名な大統領の顔を眺めましたが、見ると廊下の先のスペースは、肖像画数枚分しかありませんでした。アワー氏に「ここがいっぱいになったらどうするのですか。」と子どものようなことを聞くと、アワー氏は「それまでアメリカが有れば良いのですが。」と言ってすましていました。建物と同じく五角形の中庭が見える通路から中庭を見ると、やはり五角形の屋根がついた小さな建物が見えました。「あれは何ですか。」と聞くと「あれはペンタゴン最大の秘密施設です。」と言ってから、「ビアホールですよ、秘密ですよ。」と笑っていました。

そして広報写真部署に連れて行かれ、担当者に紹介してもらいました。ここでは第二次世界大戦に関わるアメリカ陸海軍の撮影した戦闘写真が驚くほど大きなキャビネットに収まっていて、その中から数百枚を選定しました。どれも一コマ4×5インチの大型のネガフィルムで撮影された写真で、ネガフィルムから直接プリントされた写真は驚くほど鮮明でした。カメラは戦時中のアメリカの記録映像にも時折出てくる、スピグラ(スピードグラフィックス)という、アメリカの新聞記者などがよく使った大型カメラということでした。

当時はペンタゴンの近くにネイバル・フォトグラフィック・センターという施設が有り、膨大な写真を50代くらいの如何にもベテランの女性が管理していました。このセンターの写真は、管理形態などから見て、恐らく現在米海軍歴史部で管理している写真だと思われました。

さて、その日は、アワー氏ご夫妻にペンタゴンそばのレストランに招待され、夕食をご馳走になりました。今後調査に行くべき施設をいくつか教わり、翌日からは一人で調査に向かいました。

その後、アワー氏と直接関わる仕事はありませんでしたが、時折テレビなどで顔を見るたびに、日米の間で大きな仕事をされていることが分かり、懐かしい思いをしました。

今回アワー氏のご遺志で、その遺骨が日本の海で散骨されることになり、アワー氏の日本への思いの深さを改めて感じました。

アワー氏が亡くなったのは昨年の5月16日。82歳だったので、まだまだ活躍して欲しかったです。

遺骨はこの7月12日、舞鶴沖で日米共同の水葬の儀礼で、掃海母艦「ぶんご」から散骨されました。

因みに、2001年9月初めにワシントンに行き、帰国直後に9.11事件をテレビで見てショックを受けました。その翌年の春5月、事件から9か月ほどしか経たない時に、また資料調査でワシントンに行きましたが、この時初めて空港のセキュリティーチェックで靴まで脱がされました。大きな施設は博物館や美術館などまで金属チェックゲートが設置され、町中がピリピリした空気だったのを覚えています。