まず、今回の災害で亡くなられた多くの方々のご冥福を祈ります。同時に、被災された全ての人が、一日も早く再建の日を迎えることを祈ります。

 年度末で、ドタバタとしているところに、3月11日の東日本震災、大津波、原子力発電所の事故と続き、館長ノートも止まってしまいました。

 私の実家が千葉で、たまたま親の様子を見に帰宅していたときに震災に遭ったのです。震災後しばらくは停電や電車の不通、食品やガソリンの入手難などで、いったいどうなることかと思いましたが、ようやく、やや落ち着きが戻りました。それでも、夜の街は節電のために暗く、コンビニなども、閉店しているのだろうか?といぶかるほどです。

 現在は、私自身もようやく落ち着きましたが、未だ終息を見ることのできない原発事故は、今後更に被害を大きくするかもしれません。

 しかし、過去、日本人は多くの災害を蒙りながら、そのたびに、立ち上がり、立ち直って復興してきた歴史を持っています。被害の大きさ、被災された方々の苦労を思えば、自分自身の力の無さを思うばかりですが、いつものように、自分に出来ることをする。という気持ちで、復興に協力したいと思います。

 大和ミュージアムも、微力ではありますが、募金などに協力しながら、復興の一助となりたいと思っています。

 今は、国民の多くが、悲惨な災害を受けた方々の気持ちを思い、華やかなイベントなどを自粛していますが、時期が来たときには、再び元気な活力に満ちた生活に戻ることが、復興の力そのものであると思うので、どこかで気持ちを切り替えて、頑張ってゆくことが必要と思います。

 今回の災害を思うと、天災と人災の複合災害と言ってよいものと思いました。同時に、防災の難しさも改めて感じました。そして、この日本の防災思想が、大和の設計などにも見られた、日本の技術に対する考え方に近いような気がしました。

 日本人の技術意識には、完璧を求める傾向が強くあるように思えます。無論その完璧を求める思いが、常に世界有数の成果を挙げてきたことも事実です。しかし、ことトラブルに関したときには、大きな落とし穴があるように思うのです。

 かつての日本の戦艦の防御は、「直接的に被害に耐える」ことを要求されていました。戦艦大和は、自身の持つ46センチ砲弾、1.5トンもある砲弾の直撃に耐えることを要求され、設計上はこれで大丈夫、という姿で完成したのです。しかし、これで大丈夫。という防御が出来たということは、同時に、これで安心、不沈艦である。という意識につながる結果になったのです。このために、現実には想定を超えた多数の爆弾や魚雷で損傷を蒙ったときの対応が、十分とはいえなかったのです。

 もし、大きな損傷を蒙った場合の対応や訓練を要求すると、被害に耐えるという前提を達成していないのではないか、不完全なのではないか?と言うことになるのです。文字通り、矛盾と言う言葉のままで、絶対に破られない盾ならば、破られた後の心配など要らないのです。しかし、大和は、想定外の損害の累積による被害の拡大をとめることが出来ずに沈んだのです。

 ところが、アメリカなどの戦艦の防御に対する考えは、一定以上の打撃を受ければ、損害を受けるのは当然であると考えて、蒙った損害が広がらないような設計上の対応と、乗組員による被害対応の訓練をしていたのです。無論日本海軍もそのような考えはあり、訓練もしていましたが、アメリカ海軍ほど徹底していなかったのは事実です。危機管理に関する考え方が違っていたのです。

 当然ながら原発は絶対に安全であることを要求されていました、そして技術者とメーカーは、この要求にこたえたのです。しかし、絶対に安全確実な設計、と信じたために、想定を超えた損害を受けた時の対応が出来ていなかったのです。恐らく、絶対に大丈夫と思っていたために、冷却ポンプに予備が無く、電源にも予備は不必要と思っていたのではないでしょうか。絶対に事故はないと思っていたために、作業員が入れないような事故の状況下で、即座に対応するためのロボットも準備されていなかったのだと思います。ようやく投入されたロボットも、高温高湿度の中での作業が全く想定されていませんでした。

 事故は必ず起きるものなのであり、時として想定を大きく超えるものなのです。

 戦艦大和の設計主任であった、故牧野茂氏は、大和、武蔵の沈没状況について、「設計当時は、あのような損害は想定していなかった、もっと悪い状況を想定できなかったのは、計画者にも設計者にも責任があった。」と話したことがあります。

 思いもよらないような、あらゆる形の事故の想定をすることこそが、事故回避の第一歩であるということを、改めて教えられたのが今回の災害と対応の教訓のような気がします。